俳句は「写生」、これは、すっかり聴き慣れた言葉ですね。言い換えれば、モノをよく見ることです。 しかし、この「よく見る」という言葉には落し穴もあります。
たとえば、高野素十の〈翅わつててんたう虫の飛びいづる〉という名句に即して考えてみましょう。天道虫の翅は、背中の中央から左右に開きます。だから「翅わつて」を「翅ひろげ」と表現することも考えられます。
でも、そうすると何となく平凡で、勢いよく草むらを飛び出していく天道虫のイメージが消えてしまいます。やはり、「翅わつて」、この表現こそが俳句の世界の写生なのですね。
冬帽を脱がず微笑む癌の友 進藤 正
抗癌剤を服用し、その副作用で髪の毛を失った友人と向き合い励ましておられる作者ですね。髪の毛が抜け落ちた友人ですが、見舞に来た作者を心配させないように帽子を脱がず、励ましの言葉にも微笑みながら応えている友人。痛々しいですね。
そんな友人の姿を見ている作者の心も切なく傷んでいることでしょう。そんな切ない場面を一句にしながら主観的な言葉を一切使わないことに感心しました。
病む人に言葉選りつつ林檎むく 片上 信子
この句も病む人を慰め、元気づけようとされている作者の優しさが伝わって来る一句。〈言葉選りつつ〉の措辞、これが病む人への深い思いやりを表しているのですね。
この病んでおられる方も、作者の優しさをしみじみと感じ、元気づけられたことでしょう。〈林檎むく〉の措辞にも病んだことなど全く感じさせないほどの回復ぶりを期待する作者の気持が込められているのですね。
おほどかに笑ふ女将や息白く 岡田 寛子
おおらかで、闊達な割烹の女将さんが店の暖簾を繰り上げながら、「いらっしゃい」と迎えてくれている場面でしょうか。お店の外は寒く、女将さんの笑顔からこぼれる息は白くなっていますが、お客様の心は明るくなっていることでしょう。笑顔って、人を惹きつける力がありますから。
年の市裸電球煌々と 磯野 洋子
正月の飾り物や料理の具材、多種多様な品物を売る露店が寺社の境内とか狭い路地に立ち並ぶ賑わしい雰囲気を〈裸電球煌々と〉の一語によって見事に捉えました。
正岡子規の句に〈年の市十町ばかりつづきをり〉というのがありますが、作者の句も、これに負けぬほどの迫力があると思います。
老いの坂は下りの如し年惜しむ 大前 繫雄
余生なほ愛しむ日々や根深汁 竹中 敏子
余生を送る境地に入りながら気持の持ちようが正反対の二句。
まず大前さんの句。ちょっと忠告めいたことを申し上げます。〈老いの坂は下りの如し〉なんて言わず、「老いてなほ意気揚々と」との気持になりましょう。高齢者の五人に一人が認知症になると言われる時代ですが、その予防の決め手は、人と交わり、語り合い、意欲をもって日々を送ることだそうです。とりわけ俳句を作り、句会に参加することが勧められています。楽しかったこの一年を惜しみつつ来年も楽しくやるぞ、そんな気持になりましょう。
竹中さんの句。〈余生なほ愛しむ日々や〉の措辞から想像すると、羨ましいほどに明るく、楽しい日々を送っておられるのですね。そして、〈根深汁〉との取合せ、とても効果的です。根深汁の具材である葱は、からだの内側、つまり心身ともども暖めてくれる具材、若さを保つには絶好の食材だそうです。
着て脱ぎてやはり追加の重ね着す 加納 聡子
お洒落な女性は、寒い日の服装にも気を使い、できるだけスマートに見せたいと思うのでしょうね。ことに着膨れなどしないように気を使っておられるのでしょう。
しかし、寒い日の続いた今年などは戸惑うことも多かったのでないでしょうか。
この句も、そんな戸惑いの瞬間を一句になさったのだと思います。寒い日の朝、お出かけ前の装いの場面です。いつもよりちょっと厚着をしてみたら何となく着膨れしていそうな気がして一枚脱いでみた。でもやはり寒いなと思い直して重ね着を厭わなかった、そんなお洒落な女性の戸惑いの瞬間を捉えてユーモアの溢れる一句となりましたね。
明日からは希望の陽なり冬至風呂 中野 尚志
この句を読んで、ふと思ったのは、イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスが十二月二五日であることの由来です。
四世紀の始め、ローマ帝国を経て、イエスの教えがガリア地方(当時のヨーロッパ)に広まっていきました。当時のガリアは太陽をあがめる信仰でした。ことに冬季の日照時間が極端に短いこの地方では、一転して日脚の伸び始める冬至が希望の日としてあがめられていました。
そんなガリアの人々の想いが、人々を愛し、弱者に寄り添い、永遠のいのちへ導いてくれるイエス、いわば希望の象徴でもあるイエスの到来を祝う気持と重なり、いつしかこの冬至と合わさって、十二月二五日がイエスの誕生を祝う日となっていったのだそうです。
〈明日からは希望の陽なり〉の措辞のおかげで、こんな勉強をさせていただきました。ゆったりと冬至風呂を楽しみながら、これからの日々に希望を置いて力強く生きようとされている作者の気持は、かの日のガリアの人々の気持と相通じるのかも知れませんね。
†