俳句を始めたばかりのころ、俳句は、「余韻余情が大事、だから説明や報告調にならないように」と教えられ、そのための秘訣を聞くと「できるだけ動詞を省くこと」との返事でした。このことは、しっかり胸に刻んでいるつもりですが、ときに、上五、中七、下五のそれぞれに動詞が一つずつなんていうことがあります。まだまだ未熟ですね。
だし風や国後島は間近にて 野添 優子
夏雲雀国後島はすぐそこに 井上 浩世
納沙布岬など根室への吟行を一緒になさったのでしょうか。晴れ渡る沖、いや沖どころか、すぐ近くにかの国後を望み、しばし佇んだのでしょう。
そんな国後の情景を、野添さんは、気持よく船を送り出す〈だし風〉と、また、井上さんは、〈夏雲雀〉と、どちらも爽快な夏の季語と取り合わせました。いいですね。早く返還して欲しい、そして、素敵なあの島へ渡ってみたい、そんな気持が季語に込められた取合せですね。
しつとりと雨降る朝の合歓の花 髙松眞知子
合歓の花と言えば、歌手であり女優でもあった、かの宮城まり子さんが創設した障害児のための「ねむの木学園」を思い出します。そして暑い日が続いた朝の〈しつとりと雨降る合歓の花〉の措辞から、「優しくね、優しくね。優しさって強いのよ」という、その宮城まり子さんが残された言葉まで浮かんで来ます。
淡紅色の刷毛を柔らかに広げ咲く合歓の花、その季語の本意に即した素敵な一句だと思います。
我が影を踏みて歩ける夏の夕 小谷 愛
少し涼しくなり始めた夕方、入り日を背に散歩されている作者でしょうか。先を行くおのれの影を踏みながら。私も経験がありますが、そんなときの自分の影に向かって話しかけたりします。「おい、我が影よ、長い年月、ともに歩んでくれたね。ありがとう」とか、「我が影よ、まだ背筋がしっかりしているじゃないか。俺もまだ頑張るからよろしくな」とか。
鑑賞なのに、自分のことばかり言ってすみません。作者も、引き続き矍鑠と歩き続けられるよう祈ります。
蛇を飼ふ友のやさしきまなこかな 進藤 正
蛇をペットにする人、変り者とかやや偏見をもって見られがちですね。でも中には、蛇だけが好きなのではなく、爬虫類を含め命あるものを幅広く愛する動物愛好家もいます。
そんなことを考えながら、〈友のやさしきまなこ〉は、飼っている蛇に向けてのまなざしなのか、広く隣人などに向けてのまなざしなのかと思いを巡らしてしまいました。クリスチャンの作者ですから、きっと後者のまなざしを感じておられるのでしょうね。
四歳が赤子を抱つこ青葉光 妹尾ひとみ
微笑ましく、かつ、四歳児の兄としての成長ぶりを讃える一句ですね。ことに、樹々の明るく、豊かな成長ぶりを象徴する〈青葉光〉との取合せが素敵です。
この句の前の句、〈夏旺ん赤子の世話に父母祖父母〉と併 せ読むと、お子さんの誕生を喜ぶ一家総出の賑わいが目前に繰り広げられているような気分になります。
列車行く青田の先に夕日落つ 竹中 敏子
百枚いや千枚もの青田の只中を列車がゆく、それだけでも十分に一句となるのですが、〈夕日落つ〉の措辞が加わったことにより、とても立体感のある大景の描写となりましたね。それにしても何処の景色だろう。出羽、あるいは越後の広々と波打つ青田原かな。青田波が稲穂の波に変わる頃に、是非、また一句を。
地図眺めくらして夏の過ぎゆきぬ 平本 文
この夏は、暑かったですね。山、あるいは海に出かけようかと思っても、ついつい億劫になってしまいました。作者も、地図を眺めながら、この山へ行ってみようかなどと思いつつも足の向かないままに夏を過ごしてしまったのですね。
それに、この前に〈夏の庭眺め看護士待ちにけり〉との一句があります。想像するに、何か病むところがあって訪問看護を受けておられるのかも知れませんね。
やはり、この暑さではお出かけになるのが難しかったのですね。句づくりに励んで寂しさを紛らわしましょう。
少年の瞳の奥に夏の雲 磯野 洋子
ロマンの溢れる一句。想像が膨らみます。
夏の野に佇む少年が流れゆく雲を追うかのように空を見上げている情景。少年の目は、流れゆく夏雲を追っていますが、胸のうちでは、きっと、熱い夢を追っているのでしょう。
「少年よ、大志を抱け」の言葉を連想させるのが〈瞳の奥に夏の雲〉なんですね。きっと、熱く燃え立ちそうな夏の雲、そして熱い夢なんでしょうね。
夜の散歩せせらぎののち夏蛙 岡田 潤
他の句から想像すると吉野での一句だろうと思います。でも、勝手ながら、私は、宿の下駄を履いて峡のせせらぎの音を聞きながら散歩している作者を想像しています。何故かというと、山国育ちの私にとって、峡を下って行くと、やがて田に出て、せせらぎが蛙の群れ鳴く声に変わる、これがとっても懐かしい場面だからです。
久々に、望郷の念を沸々とさせていただきました。ありがとうございます。