「孫の句に名句なし」、これは、皆さまも一度ならず聞いたことのある言葉だろうと思います。
確かに、お孫さんは、祖父母にとって、この上をもなく可愛い存在ですので、その想いが強く句に出てしまう、つまり感情移入の過ぎた句になってしまうことへの警告の言葉なんでしょう。
わが子やペットを句材として詠むときも感情移入が過ぎてしまうことがあります。でも、そのことを意識して、主観的な感情を抑制した表現、言い換えれば「もの」に託して句づくりをすれば問題ないのではないでしょうか。
拾ひたる桜落葉を懐に 岩橋 俊郎
桜が咲くころは、入学、あるいは逆に卒業、社会人にとっても、入社あるいは転勤などの人事異動と、思い出深い人生の節目と重なります。
作者が懐に入れた落葉も、思い出深い出来事のあったときに咲いていた桜の落葉なのでしょうね。読み手からすると、どんな思い出なんだろうと想像を逞しくしてしまいますが、そこは読み手にまかせた作者の潔さを感じますね。
そして、ふと〈さまざまの事思ひ出す桜かな〉という芭蕉の句が浮かんで来ました。
さつさうと人力車夫の息白し 越智加奈子
浅草の雷門などで見る人力車、外国の方の人気を呼んでいるようですね。スマートな若者が曳く様子は、まさに〈さつさうと〉しています。
この句の魅力は、〈息白し〉との取合せですね、好青年が生き生きとリズム感をもって人力車を曳く、そのダイナミックな姿が目に浮かびます。
案山子いま役割終へて安堵顔 近藤登美子
稲刈りも終わって刈田から抜き取られた案山子、長い間、風雨にさらされて衣服はもとより目鼻も褪せてしまっているのかと思いきや、作者は、〈安堵顔〉と捉えました。
そこには、今年も無事に稲の収穫ができた作者自身の安堵感、そして、頑張ってくれた案山子への愛情と感謝の心が込められているのでしょう。
褪せてしまった案山子ですが、処分されて捨案山子とはならずに納屋の奥に大事に保管されることでしょう。
今一度見に戻りたり帰り花 奥本 七朗
帰り花、小春の日差しに誘われたかのように、ぽつぽつと二、三輪が咲くけなげな花ですね。久しぶりに見る桜の花です。そんな帰り花に出合うと運がよかったような幸せな気持になりますが、あっという間に風に散ってしまいそうな不安な気持にもなります。
作者も、そんな気持になって、まだ散らずに咲いているかどうか確かめたくなったのでしょう。もう一度〈見に戻りたり〉の措辞がぴったりの心境ですね。
色褪せし作務衣たたみて秋惜しむ 宇塚 弘教
農作業でしょうか。日々、野外の作業に打ち込んでいたのですね。愛用していた作務衣は、日に焼け、すっかり色褪せてしまいました。月日の経つのは早いもので、収穫も終わり作業も一段落です。
すっかり色褪せた作務衣を丁寧にたたみながら、その作務衣に、ご苦労さん、来年もお世話になるぞと語りかけている作者の姿が目に浮かびます。
〈秋惜しむ〉の季語も、「豊の秋」への感謝の気持が込められているのですね。
競ふより楽しく走る運動会 山﨑 尚子
理想的な運動会ですね。私の通うカトリック教会の付属幼稚園の運動会も、こんな雰囲気で楽しい行事になっています。お手伝いをする私たちも、笑みを浮かべながら楽しく眺めています
たとえば、遅れてしんがりを走る子に手を差し伸べて一緒に走る園児なんかを見ると嬉し涙が出そうになります。
でも、ときには、鬼のような顔をしてトップを走り、勝った、勝ったと威張る園児なんかを見ると興ざめしてしまいます。
秋麗の邸宅街にカレーの香 小見 千穂
爽やかな、そして、何となく上品な造りの邸宅が並ぶ街。佳き人たちがお住まいになっているのかも知れませんね。
そんな邸宅街から料理の香りが流れてきました。その香りは、シチューやポトフの香りではなく、とても庶民的なカレーの香りだったのです。
一瞬、意表を突かれた作者かも知れませんが、その意外性を一句にしたためた作者のセンスに感服です。
許されぬ思ひを胸に冬紅葉 中村 和風
難解な一句です。〈冬紅葉〉の季語をどう受け止めるかが、この句の鑑賞の鍵かも知れません。冬になってもなお華やかな〈冬紅葉〉なのか、それとも、傷んだまま散り残っている哀れな〈冬紅葉〉なのか。想像が膨らみます
でも、作者の五句目に〈初時雨どうすることもできぬ恋〉という微妙な句がありますので深入りはやめておきます。
ジーパンにこすり林檎を齧りたり 中野 尚志
野辺を歩きながら、捥ぎ立ての林檎をジーパンでこすって皮ごと食べる、野趣に富んだ場面ですが、かえって林檎の新鮮な美味しさが伝わって来ます。
私も子どものころ同じような経験をしていますが、それは林檎ではなく柿でした。私の故郷では、どの家も庭木のように柿を育てていました。通学路にはみ出している柿の実を捥いで食べていました。学校の行き帰りに一個ずつ。美味しかったです。他愛もない私的な経験で恐縮です。