俳句についてもう少し詳しく勉強しよう

初心者のための 俳句入門講座          朝妻 力

俳句詳説1

このテキストは筆者の勤務先(富士ゼロックス株式会社)におけるマネジメント・スクール(管理職研修)の体験学習用教材として執筆したものを修正、加筆したものです。ご意見や個人以外でご利用になる場合は riki575@peace.ocn.ne.jp にご連絡ください。なお初心者の方にとって難解と思われる語句や専門用語は緑に着色し、章節の終わりに解説を付しました。また引用作品や大切と思われる部分は青色にしました。

1、はじめに

 近年、俳句ブームと言われています。というよりも、俳句ブームと言われ続けている、と表現したほうが正しいかもしれません。10年も20年も前から俳句ブームと言われておりますし、俳句ブームは終わったなどという言葉も聞いたことはありません。仮に、「俳句ブームは終わった」、ということが言われるとすればもてはやされて膨張する時期を過ぎ、作品の充実を図る時期が来た、ということであろうと思われます。

 俳句を楽しんでいる人は、一説には1000万人を越えるといわれています。これは大げさにしても、実際に年に一つでも俳句を作る人の数は200万から300万人に達するでありましょう。カルチャースクールの俳句教室や俳人協会など専門団体の主催する俳句講座はいつも大盛況ですし、本格的に俳句を修練し、楽しむ場である俳句結社は全国で1000以上もあるのが現状です。

 そして結社の会員などを見てみますと、サラリーマンや学生、主婦など若い人たちが多く、いままでの老後の楽しみという位置づけから、若いときからの楽しみというように、年齢層が急激に変化してきています。

 そんなブームの中、今迄は教育テレビやラジオでしか取上げられていなかった俳句の番組が、NHK衛星放送のBS俳句会・俳句王国とか、民放の気象番組など、趣味・教養講座以外の番組でも取上げられるようになりました。


俳人協会... 社団法人。新宿区百人町俳句文学館内。俳句結社または俳人が全国規模で参加している。俳人協会以外の主な全国的組織は「日本伝統俳句協会」、「現代俳句協会」など。

俳句結社... 主宰(しゅさい)と呼ばれる指導者のもとで、月に何回かの句会を開き、月刊・隔月刊または季刊の会誌を発行する。会費は月に1000円程度。会誌には主宰や会員の作品が掲載される。最大の結社は明治30年正岡子規の意向を受けて柳原極堂が発行し、高浜虚子が継承したホトトギス。現主宰は稲畑汀子。正岡子規については後述。

会員... 全くの初心者でも俳句に興味のある人なら誰でも会員となれる。会員2・30人の結社から10000人近い結社まである。



 このように俳句がブームと言われるまでにもてはやされるのは何故でしょうか。誤解を恐れずに断言しますと、俳句という文芸には、人を引きつけて離さない魅力がある。ということでありましょう。
 まとまった時間がなくても、改まってどこかへ出かけなくても、紙と鉛筆さえあればできるのも魅力の一つです。人には自己の感情を表現したいという基本的な欲求があります。短時間にあるいは手軽に自己表現ができる、こんな点も俳句が多くの人に支持されている原因と考えられます。

 また、入り易いが、奥行きがとてつもなく深いと言うことも、例えば芭蕉以来300年ものあいだ連綿と栄え続けている理由のひとつであろうと思います。

 一方、俳句・囲碁・楽器演奏等の、創造力や独創性が必要な趣味は、他の模倣を中心とする趣味に比べ老化防止に効果的という学説も有力です。誰にでも必ず訪れる老後を、豊かにすごす手段としても期待できそうです。


芭蕉...ばしょう・松尾芭蕉。江戸元禄時代の俳人。言葉の遊びに過ぎなかった俳諧を文芸の域にまで高めた。俳聖といわれ、翁とも蕉翁(しょうおう)とも呼ばれる。単に翁(おきな)といえば芭蕉を指すことが多い。元禄7年10月12日(旧暦)、大阪南御堂前、花屋の座敷で亡くなった。絶吟は「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」で、大阪御堂筋の南御堂境内に句碑がある。芭蕉の忌日を芭蕉忌、翁忌、時雨忌などという。

俳諧...はいかい。俳諧連歌の略。俳諧歌とは滑稽、おかしみのある和歌の一体。連歌とは和歌を何人かで作る言語遊戯。俳句小史に詳細。



2、感動と詩歌

 俳句は詩です。それも世界で一番短い形式の、日本独特の詩です。
 ところで、詩とは一体何でしょうか。講談社の「日本語大辞典」には、俳句・詩などについて、次のように説明しています。

文学 ・・・言語を素材として思想や情緒や美的感動などを表現する芸術作品。形式からは韻文と散文。様式からは詩歌・戯曲・小説・随筆・批評等。
韻文・・・リズムのある文。詩・歌・俳句など。
詩歌・・・詩や短歌・俳句など韻文の総称。

 少々固い文章ですが、大ざっぱに言いますと、詩とは、 作者の感動や感慨を第三者に伝える目的で書かれた、一定のリズムや形式を持つ文章、とでも言えましょうか。内容によって叙事詩とか叙景詩叙情詩とかに分かれ、形式により、漢詩・和歌俳句・自由詩などに分類されることはご存じの通りです。


叙事詩 じょじし 事実や物事を詠んだ詩
叙景詩 じょけいし 主として景物や自然を詠んだ詩
叙情詩 じょじょうし 心の動きや感情、気持ちを詠んだ詩
定型詩   ある一定の形(リズム)を持つ詩
漢詩   五言絶句など
短歌   57577
都々逸   7775
川柳   575
俳句   575
自由詩   決まった形式なし
詩歌 しいか
(「しか」の慣用読み)
もともと詩は漢詩、歌は倭歌(やまとうた)すなわち和歌をあらわしたが、今は全ての韻文をさす

いずれにしても何かに触発されて感動が生まれ、書き留めてみようと云う心の起きたとき、詩歌の世界が始まります。

桜のつぼみの膨らみをみて「春が近い」と思った。
夕焼けのあまりの美しさに驚き、しばらく茫然とする。
オヤ、木の上で鳴いている虫があるぞ。なんと言う虫だろうか。
健康診断の結果が何ともなくてホッと一安心する。
祭り浴衣の女の子に「かわいい~」と叫んでしまいそう。

感動というと特別な人が感じることのように思いますが、実はこれらが全部感動なのです。これなら誰にでも思い当たることですね。驚いたり、うっとりしたり、疑問に思って調べたり、泣けてみたり、うれしくなったり、たまにはすねてみたり、怒ってみたり…。 誰にでも生じる心の動きが感動の本質です。話が少々それますが、俳句はこの誰にでも生まれる心の動きを詠むというところに一つの特徴があります。いわば至って身近な詩といえるでしょう。

感動が生まれ、それを表現すれば詩歌となります。ここで大切なことは、表現するということは、すなわち読者を意識するということに外ならないというとです。となりますと、少なくとも

  その感動が読者に正しく伝わるように表現する。
  読みやすいよう、覚えやすいように表現する。

などの工夫が必要となります。



3、 詩歌と七五調

 一番目の正しい表現につきましては後ほどたっぷり出てきますので、ここでは読みやすい、覚えやすい文体について考えてみましょう。例えば煙草のパッケージを思い出して下さい。

  あなたの健康を・損なうおそれが・ありますので  9・8・6
  吸いすぎに・注意しましょう。          5・8

リズムもばらばらで、ちょっと覚えきれません。覚えきれませんが、正確に伝えるという点ではこれ以上に的確な文章はないと思えます。一方、
  
  左見て 右見てわたる よい子たち        5・7・5

はどうでしょうか。誰にでも記憶出来ます。
 日本語として細かく検討しますと、どこを渡るのかが不明です。575にするために、どこを渡るかを省略しているのです。煙草のパッケージに比べ、文章としての正確性には欠けていると言えましょう。しかし前後の文脈から、道路を横断するときの交通安全の標語であろうことはすぐに理解できます。子供たちもすぐに理解し、覚えていることのできる標語。交通安全にもかなりの効果がありそうです。

 この事例から、読み手が容易に類推できる範囲で省略することが、575にするコツということにお気づきのことと思います。省略は俳句を学んでゆくと繰り返し登場する言葉です。

 いずれにしましても、読みやすく、覚えやすいのは、5・7・5のリズムを持っているからからです。このように5音、7音を基調とした表現を七五調(しちごちょう)とよんでいます。七五調にすると文章にリズム感が生まれ、格段に訴求力の増すのが日本語の特徴です。ここで七五調の実例を2、3見てみましょう。

  咲いた桜に  なぜ駒つなぐ   7 7
  駒が勇めば  花が散る       7 5

これは都々逸(どどいつ)です。7775のリズムを持っています口唱しやすく、覚えやすいことがお分かり頂けると思います。
 所でこの都々逸、駒は馬のこと。桜の花の散りやすさを念頭に、「桜に馬をつなぐな」、と言っているのですが、というのは表面的な見方で、実は咲いた桜を美しい娘さん、駒を若者とみたてています。「美しい娘さんに、なぜ若者を近づけるのか。娘さんが散るのは分かりきっているではないか……」。都々逸は日常生活の粋な部分を艶やかに歌う傾向があります。一方、俳句と同じ575のリズムを持つ川柳は日常生活の俗な部分を滑稽に歌う傾向があります。
 
  蚊帳の中から   花を見る  7 5  蚊帳:かや
  咲いてはかない  酔芙蓉   7 5

 少々古いとお叱りがあるかもしれませんが、これは石川さゆりさんの歌っている風の盆恋歌の一節。完全に七五調になっています。
 このように七五調というのは、実は日本語にとって非常に都合のいいリズムなのです。なんといっても読み易いし、覚え易いという特徴があります。この特徴を生かしたのが日本の詩歌であると言えます。

 次章から世界の詩歌の中で最も短い定型詩、俳句とは何かについて検討してまいりましょう。


風の盆恋歌・・・高橋治作、同名の小説に取材した歌謡曲。風の盆は越中八尾町で毎年9月1日から3日にかけて行われる、盆踊り。この日が厄日である210日近辺であるところから、農作物が風の被害を受けないようにと始まったと言われる。はやし言葉に誘われ、哀調たっぷりに唄われる「越中おわら節」。三味線の間を掬うように弾かれる鼓弓。強い調子の男踊り、しなやかな女踊り。日本で最も優美な盆踊りである。

酔芙蓉・・・芙蓉の一種。咲きはじめのころは純白の花だが、夕方近くなると、紅色に変わる。その変わり様が、まるで酒に酔ったようなので酔芙蓉と名づけられた。朝咲いて夕方には散る一日花。


 


4、 俳句とはなにか 季語と定型

 感動が生まれ、それを表現すれば詩となります。ではどのような詩を俳句というのでしょうか。

   荒海や佐渡によこたふ天の川      松尾 芭蕉
   牡丹散つて打ち重なりぬ二三片     与謝 蕪村

 おなじみの句をあげてみました。読んでみますとどちらも5・7・5のリズムを持っていることがわかります。またどちらの句からも季節の感じが伝わってきます。

 荒海やの句は天の川が秋の季語です。このころは空気も澄み、天の川がたいへん美しく見えます。そこで昔の人々は7月7日を七夕として星空にいろいろな願いを託す行事を考え出しました。7月7日といいましても、もちろん旧暦で、今の暦では8月末にあたります。

 明治6年にそれまでの太陰暦から太陽暦(新暦)に変わり、その結果今では多くの地域で新暦の7月7日に七夕をお祭りするようになりました。新暦のこの時期は、梅雨の真っ最中です。梅雨の真っ最中に七夕なんて、少しナンセンスですね。話がそれましたが、蕪村の句の季語は牡丹。打ち重なりぬ二三片というあたり、牡丹の散りようがよく現されている句です。

 俳句にはこのように575で作る、そして季節の言葉を入れるという2つの大きな約束があります

◇俳句は5・7・5の計17音で表現される詩です。これを定型(ていけい)と呼んでいます。
◇俳句には季語を使います。これを有季(ゆうき)といいます。

 俳句は自然賛歌でもあります。四季折々、美しく変化する日本の自然。人々は古くから心を慰めてくれる自然を愛し、食物を提供してくれる偉大な自然を崇拝して来ました。
 
 その自然や自然の中での生活の言葉は、この国で生活する人に共通したイメージを湧かせてくれます。例えば、桜といえば誰でもが春の訪れを思い、春風とか、入学とか、新学期などを思い出します。後でもう少し詳しく述べますが、季語・季題があるために5・7・5、計17音の短さでありながら、無限ともいえる表現が可能になっているのです。


5、 一句一章と二句一章

 俳句の約束は以上の二つですが、俳句を作り、あるいは鑑賞するさいに、どうしても知っておかなければならないことがもうひとつあります。それは俳句には、2句1章の句と1句1章の句があということです。

 従来の多くの入門書は、3つめの約束として切れ字切りを説明し、1句1章と2句1章の説明としている感があります。しかし、私の経験では、どうも理解しにくいようです。そこでここでは、俳句には、1句1章の句と2句1章の句がある。ということに重点をおいて説明します。ここでいう「句」とは、1つの句文節のことをさします。簡単に言いますと、一応意味の完結している文のこと。もっと荒っぽくいいますと、まとまったひとかたまりの言葉をさします。

 さて前章の冒頭の句を思い出してください。

   荒海や佐渡によこたふ天の川      松尾 芭蕉
  
この句をよく点検しますと、
    荒海や
    佐渡によこたふ天の川

という2つの句文節からできていることがわかると思います。つまり、「荒海」 と、「佐渡によこたふ天の川」という、2つの情景が取り合わされてできているということです。

取り合わせといいますのは、2つのモノや情景や思いなどを並べて、1つづつ時よりももっと美しく、あるいは劇的に見せようというものです。例えば、夏の冷やしそうめんを分厚い丼に装ったらどうでしょう。何か暑苦しい気がして、食欲をそそられるなどということはありえません。しかしこれをちょっとオシャレなガラスの器に装うと、とたんに美味しそうに見えるものです。
 取り合わせとはこのことを言います。いい組み合わせにより、1つの時よりも数段美しく見えるようにしよう……。スーツとネクタイ、帯と帯留め、スカートに靴、洋服に首飾りなどなど、みんな取り合わせです。

 取り合わせの句についてはこれから繰り返して説明しますが、「俳句は難しい」とか、「みんなはいい句だと言うのだけれど、私には何を言っているのかわからない」などという場合は、十中八九が取り合わせの句、すなわち二句一章の俳句です。取り合わせるという意味、取り合わせの句の美しさを知ることが俳句を知る一歩とも言えます。


さて、
   牡丹散つて打ち重なりぬ二三片
はどうでしょうか。打ち重なりぬ、と終止形にはなっていますが、直後に、二三片と重なった対象が出てきますので、文章の意味は途切れることなく、 最後まで続いています。意味としては

 牡丹が散って打ち重なった二三片
 牡丹が散って二三片が打ち重なった

ということになりましょう。このように、最後まで一気に読み下す俳句を一句一章の句といいます。1句1章の俳句は1つの対象だけを詠みます。したがって誰にでも理解することができるということが、大きな特徴です。

 1句1章であるか、2句1章であるかを明確にし、また感動の所在を明確にし、あるいは一句の意味を正しく伝える目的で、切れ字、または、言い切りの手法を用います。切れとは、文章の言いきり、言い止めることをいいます。
 
 

1句1章、2句1章など、詳しくは後述しますが、ここでは代表的な切れ字を3つ紹介しておきます。ついでに2句目、3句めは1句1章か、2句1章かも考えてみて下さい。

  荒海佐渡によこたう天の川     が切れ字
  大根の葉の流れゆく速さかな     かなが切れ字
  いくたびも雪の深さを尋ねけり    けりが切れ字

 最後の「いくたびも…」の句は、正岡子規の句です。子規が不治の病、脊椎カリエスで病床についている時の作。降り続ける雪を見て、「どれくらい積もったであろうか」と、看病の母親や妹に何度も何度も尋ねたというです。

 降る雪に子供のように気持ちを昂ぶらせている様子が、いきいきと伝わってきます。一度読むと忘れがたい作品でもあります。


-解答- 2句め・3句め共に、1つの事柄を最後まで言いきっていますので、言いきりの俳句、すなわち1句1章の句です。


 

6、 まとめ

 有季、定型を合わせて有季定型(ゆうき・ていけい)といいます。他に、季語のない無季俳句とか、定型を無視した自由律俳句などがありますが、これらの作品は俳句としての魅力よりも、河東碧梧桐・種田山頭花・尾崎放哉などその作者の行き方の魅力などに引かれて残っている場合が多いようです。この章はこれで終わりです。要するに有季定型が、俳句の基本。

 ・ 季語を1つ入れる。
 ・ 575で表現する。
 ・ 1句1章、2句1章を理解する。

 これさえできれば、あなたも立派な俳人です。どうぞ外にでて作ってみてください。俳句はどなたにでも作れます。
 

 


無季俳句...季語のない俳句。松尾芭蕉でも季語のない俳句がいくつもある。芭蕉さんが杖突坂という風流な名前の坂を、杖をつかずに、つまり馬に乗って通り、途中で馬から落ちてしまった。その折の句

歩行(かち)ならば杖突坂を落馬かな

が知られれている。意味は、「杖突き坂で落馬してしまった。この風流な名の坂はやはり歩いて(杖をついて)通るべきであった」、という程度。他には

しんしんと肺碧(あお)きまで海の旅  篠原鳳作

分け入っても分け入っても青い山    種田山頭火

入れものがない両手で受ける      尾崎放哉

二句め三句めは、無季でもあり、自由律俳句でもあります。


自由律俳句

子規庵のゆずらの実お前たちも貰うて来た 河東碧梧桐

など575にこだわらない俳句。作者名を知らされずにこれらの作品を提示されたばあい、それが俳句であるか散文であるか分からないという弱みがある。俳句は575というリズムのもつ力を活用した文学。この力を引き出していないという点からも、「自由律も俳句である」とする根拠は薄いと考えられる。