●助詞を上手に働かせる
前回は「し」の誤用について話しました。で、今回の作品の中に、
子を連れし羅の僧歩の緩む
がありました。もう分かりますね。今、眼前に子連れの僧がいるわけですから、この「し」は誤用です。この作品、どう直したらいいでしょうか。
――連れるの文語は「連る」で、下二段活用ですから〈子を連るる羅の僧歩の緩む〉となると思います。
――でも、そうなっても、お寺さんが歩調をゆるめたのか、作者が歩をゆるめたのか、はっきりしないような気がします。
そうですね。普通には二つの意味が生じます。
① 子を連れた羅の僧が歩を緩めた
② 子を連れた羅の僧に私が歩を緩めた
普通には①の意味でとるのでしょうが、お子を連れた僧侶が珍しいだけに、作者が歩を緩めたのかとも思ってしまいます。作者はどちらを言いたかったのでしょうか。
――作者 知っているご住職なのですが、少し遅れた跡取り息子を振り返っておられました。そこを歩の緩むとしたのです。
そうか。だとしたら、「歩を緩む」とすればいいですね。何回も話しておりますが、動詞には他動詞と自動詞があります。
他動詞 …を…する 例 空を睨む
自動詞 …が…する 例 桜が咲く
ですね。緩めるは他動詞です。他動詞ですので「を」を使って「歩を緩む」とすれば正しく伝わります。
もっとも、この作品を読みますと舌がもつれるような印象もありますね。そこで、
羅の僧跡取りを振り返る
としてはいかがでしょう。
さて助詞の選び方で、句意が曖昧になった作品がもう一句ありました。
軽鳧の子や白亜の城に犬走り
「犬走り」といいますのは、築地の壁と溝とか、城垣と堀との間にある狭い地面をさします。しかし「犬が走る」の連用形という解釈も生まれてしまいます。助詞「に」は動詞にかかります。そこで、
①白亜の城に犬走りがある
②白亜の城に犬が走っている
という二つの解釈が生まれるのです。そこで
軽鳧の子や白亜の城の犬走り
軽鳧の子や白亜の城を犬走り
のどちらかにしましょう。
一句目の「の」は体言につながりますので、犬走りは名詞と特定できます。白亜の城に犬走りがある。(堀には)軽鳧の子が見えるという意味。
二句目の「を」は動詞につきます。そこで「白亜の城を犬が走り、(堀には)軽鳧の子がいる」という意味となります。
助詞を上手に働かせて、句意を固定する。こんな頭の体操も楽しいものですね。
●余韻の正体
句会で何気なく余韻とか、余情などという言葉を使います。今日はこの余韻余情について考えてみます。
手毬唄いちばんはじめは一の宮
という作品がありました。一番はじめは一の宮……といえばこれは手毬唄とすぐわかります。手毬を突くとき以外でも歌う、昔ながらの数え唄。よく分かる作品です。で、この作品の句形を見てみましょう。いつものように、原句に句点を打ってみます。
手毬唄。いちばんはじめは一の宮。
のようになります。切れが二カ所の作品。切れというのは句点と同じですから、句点が二つで一章の俳句、つまり二句一章の俳句です。
句意を見ますと、「手毬唄」と情景を提示し、「いちばんはじめは一の宮」と歌っているという意味になります。
さて、ここで俳句の原点に戻って考えてみます。俳句は短い。短いだけに使う言葉は、無駄なく、効果的に働かせたいと思うわけですが、この作品について無駄とか、効果的かという観点で考えてみて下さい。
――この唄、ちっちゃい頃によく歌っていました。だから、言わなくてもわかるので、「手毬唄」は要らないと思います。
僕もそう思います。ここでは手毬唄と情景を提示する必要はありません。
むしろ邪魔になる印象もあります。
そこで、たとえば「初晴や」としてみましょう。
初晴やいちばんはじめは一の宮
さあ、どんな情景が思われますか。
――新年の光景。女の子が表に出て毬突きをしている場面です。同じ場面ですが原句よりは情景がうんと広がったように思います。
情景が広がった、いい感想ですね。初晴は元日の晴天のこと。気持も晴れ晴れと元日を迎え、めでたさもいっそう増してくれるものです。そんな元日に、女の子が手毬で遊んでいる情景。いかにも日本の正月という作品になりました。
いちばんはじめは……という数え唄を聞いた作者、初詣をまず一の宮にしようと思ったのかもしれません。初晴という季語と手毬唄の歌詞が見事に響き合っている趣があります。
ところで、さっきAさんが情景がうんと広がったと言いましたが、なぜ情景が広がったのかを考えてみます。原句は「手毬唄」と言い切りながら、そのあとに手毬唄の歌詞を述べてしまいました。誰が読んでもすぐに意味が理解できますね。つまり全てのことを言い尽くしたのが原句であると言えるのです。一方、初晴やとした場合、中七下五とは意味の上でも切れてくれます。
実は、芭蕉さんに「言ひおほせて何かある」という言葉があります。
ある作品の感想を門弟の去来に尋ねたところ、去来は「糸桜の充分に咲いた様子をよく言いおおせていると思います」と答えました。すると芭蕉さんは「言いおおせたからといって、それが何であるというのだ」と言ったというのです。言いおおせない方がいい、言いおおせるな!という意味ですね。
少々蛇足になりますが、芭蕉さんのこの言葉を「言いおおせて、その奥に何かがある」という風に解釈している人や書物がありますが、これは大間違い。「言いおおせたからといって、それが何だというのだ!」が正しい意味です。覚えておいて下さい。
芭蕉さんはまた「発句はくまぐままで言ひ尽くすものにあらず」とも言っています。くまぐまを漢字で書きますと隅隅。つまり「すみずみまで言い尽くすな」という意味です。芭蕉さんはこれらの言葉から何を言いたかったのでしょう。なぜ「言いおおせるな」とか「隅隅まで言うな」と言ったのでしょうか。Bさんどう思います?
――こまごまと、あれこれ全部を言うと、はじめから終りまで分かってしまってつまらない……ということでしょうか。
そうですね。その通りです。
俳句は作者が自分で楽しむものではない。読んでくれる読者があってこそ、成立する文芸ですね。作者の呟きであっても、それは読者を意識した呟きということです。
作者と同じ感動を読者が味わえてこそ俳句が成立すると言っても過言ではありません。違う角度で言えば、読者は他人の俳句を味わい、楽しみたいのです。
そんな読者に対して、「手毬唄でいちばんはじめは一の宮と歌っておりました」と言っても、読者にとっても面白くもおかしくもありません。読者があれこれ想像したり楽しむ余地が全くないからです。初めから終りまでを言われたり、原因と結果を言われたら、味わう余地がなくなります。読者があれこれ想像できる余地を残しなさいというのが芭蕉さんの指導であったということです。
読者が楽しむ余地のことを、ちょっと乱暴に言いますと余韻とか余情といいます。余韻は韻ですので音調・声調に重きをおく、余情は情ですので心情に重きを置くというニュアンスの違いはありますが、通常は同じような意味で使われる言葉です。
余韻余情を具体的に考えてみますと、読者がその作品を通してどれだけ、その詩情を味わうことができるか、どれだけ作者と同じ感動を味わうことができるか、そんなことであろうと思います。その一つの決め手が、言い尽くさないこと。たとえば世阿弥の『風姿花伝』、「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」に通じる心であるように思います。
同じく言い尽くさないという観点から、次の作品をみてみましょう。
見失ふ眼鏡を探す朧かな
正しく表現しますと「見失ひし眼鏡」となるのでしょうが、いずれにしても、探すということは、失ったからですよね。ということで「見失ふ」は邪魔な言葉となります。たとえば、
読みゐたる眼鏡を探す朧の夜
としたらどうでしょう。少なくとも、言わなくても良い「見失ふ」という探す原因がなくなりました。
俳句を作るときの一つの心構えとして「言い尽くさない」ということを思いつつ作りましょう。余韻・余情は季語、言葉、韻律など多くの要素がからみあって生まれるものですが、その入門編として言い尽くさないということを心がけましょう。