一番茶粉引茶碗の手に柔し 長岡 静子
粉引は温かみのある白い器ですが、白い器のことを全て「粉引」と言うわけではなく、ベースの粘土の上に白化粧という白い泥をかけ釉薬をかけて焼いた器を粉引と言います。掲句、少し大ぶりの粉引茶碗でしょうか。白い器の中の一番茶の薄緑が想像できる一句。その粉引茶碗の肌触りが〈手に柔し〉という感覚を生んだのでしょう。
花万朶小風を待てるカメラマン 原 茂美
詞書の和歌山城は紀州徳川家の居城。天守は戦後に復元されたものですが石垣などは江戸時代からの物が残されています。そしてこの城は桜の名所で季節になると多くの人々が集まります。〈小風を待てる〉の表現が花吹雪を待ちかまえるカメラマンの姿を想像させてくれます。
再会の握手は両手花万朶 宇利 和代
両手での握手はどのような場合に行うのでしょうか。ビジネスシーンでは両手での握手はあまり見ることはありません。両手での握手は思いがあふれて思わず両手で相手の手を握り締めてしまうもの。この句の情景も昔からの友人と久しぶりに会えた嬉しさが爆発したものなのでしょう。満開の花が二人の再開を祝福しています。
のどけしや今日くまモンの誕生日 岡山 裕美
くまモンは日本で最も有名なご当地キャラクターで公式の肩書は「熊本県営業部長」兼「熊本県しあわせ部長」。熊本県には「くまモン課」がありホームページもあります。掲句にあるくまモンの誕生日は三月十二日(九州新幹線の全面開業の日)。くまモンは役所だけではなく希望のところへの出勤も依頼できるようで、ご要望の方はホームページの「くまモン隊出勤の手引き」をご覧ください。
くぐりゆく橋の幾多や花筏 川口 恭子
桜の季節の隅田川でしょう。隅田川の橋は江戸時代に千住大橋や両国橋をはじめとする五つの橋がかけられ、明治時代にその数が大幅に増え現在は三十以上の橋が架かっています。浅草に向かって水上バスに乗りそれらの橋をひとつずつ潜っていくのも楽しいものです。浅草に近づくと墨堤に植えられた桜の花が散り花筏となり川面を流れているのでしょう。
花散るや鯉やはらかく鯉を避け 志々見久美
近所の池などで見る錦鯉は餌をもとめていつも混み合い頭をぶつけあっていますが、この句は広い池での鯉の姿なのでしょう。鯉がお互いを「やはらかくさける」の表現が読者にゆったりと泳ぐ鯉の姿をイメージさせてくれます。
糸底のざらつく朝や花曇 小林伊久子
糸底は茶碗や湯呑みについている台のような部分のこと。この部分は轆轤を使って茶碗などを作る際に最後に糸で切り仕上げることから糸底と言われています。いつもと何も変わらないのに今朝はことのほか糸底のざらつきを感じている作者。何か心に鬱屈したものでもあるのでしょうか。
コロッケ買ふ六角橋の路地暮春 伊津野 均
シャッター通りとなっている商店街が多くなっていますが各地には元気な商店街がたくさんあります。掲句の六角橋は横浜の東急電鉄東横線白楽駅にある昭和レトロな商店街。商店街の大通りや、アーケードのある細い路地に店が集まり多くの人でにぎわっています。作者はその商店街に遊びにきて有名な福徳商店のコロッケを頰ばっているのでしょう。商店街で見かける庶民的な風景です。
泣き声がをちこち保育園四月 田中まさ惠
仕事で障害のある子どもたちの療育園に行っています。初めて登園をし保育士にあずけられた子どもたちは口を一杯開け大声で泣きます。子どもたちの登園時にはエントランスは子どもたちの泣き声でいっぱいになりますが、その泣き声はものの三十分もするとおさまり笑い声が聞こえてきたりします。〈保育園四月〉の破調の表現が効果的に作用していると感じます。
鍋の底磨きて払ふ春愁 中村ちづる
春になると何となく感じる憂うつな気分。その原因は一日の中の寒暖差、低気圧と高気圧の短い間隔での通過、進学や就職等の身近な環境の変化などが考えられますが、その対処法はあまり教えられていないようです。春愁などの気分変動には最も効果的と言われているのが、鍋の底を磨くというような単純作業に集中するということ。無心の作業が気分変動に対しては効果的なのです。作者は主婦としての経験値で対処法を習得したようです。
とろ火もて豆煮含める朧の夜 田中 愛子
中食(なかしょく)という言葉があります。これは外食と内食(うちしょく・家庭で料理をする食事)に対して総菜や弁当などを持ち帰って食事をすることを言います。共働きなどにより家庭内で手間のかかる料理をすることは減っています。昔から手間がかかる料理の筆頭と言われているものが豆を煮ること。豆料理は一晩ぐらい水に戻した豆を火にかけゆっくりと煮るもの。昔であれば火鉢などに鍋をかけゆっくりと火を通します。掲句の煮豆は甘く煮含める花豆などでしょうか。季語がゆっくりと経過する時間を感じさせてくれるように感じます。
ぶらんこの子の背小し柔らかし うすい明笛
ぶらんこに乗っているのはお孫さんでしょうか。その背中を押したときその子の柔らかさ小ささを実感した作者。小さな命に対して愛おしく思う気持が表れていく一句だと感じます。