退院し虫の音を聞く家居かな 布谷 仁美
激しい暑さの続いたせいか、今月は退院とか体調を戻したという作品が目立ちました。作者も夏から秋にかけて入院され、車椅子生活をされていたようです。長き夜の時間をもてあまし、しかしめでたく退院されました。家で虫の音を聞く。病院とはまさに別世界でしょうね。お大事にして療養にお努め下さい。
ふくろふや多分トトロに逢へる森 岡田 寛子
宮崎駿監督の「となりのトトロ」。三十年以上も昔、狸のお化けを思わせるトトロ。サツキと妹のメイの夢と現実を行ったり来たりするような体験。マックロクロスケとか猫バスが出てきたり……。ふくろうが鳴いているのですから夜でしょうね。トトロが出るかなと期待を膨らます作者。
電子辞書繰れば師の句や秋灯下 野添 優子
作者にとっては師と呼べる人が何人かはいるはず。しかし句とありますので、手前勝手に私ではないかと思ってしまった作品です。それにしても秋の灯のもとで電子辞書を叩く。まさに学習する結社ですね。
忍辱行きの安堵にあふぐ秋の山 宇塚 弘教
忍辱は侮辱や苦しみに耐え忍び、心を動かさないこと。そして自身の出来ないこと、見たくない部分も認めるというような寛大な境地をさすようです。そんな境地に到達できる安堵をもって秋の山を仰ぐ。僧籍にある作者ならではの作品と鑑賞しました。
蝦夷の血や橡の実一つでも拾ふ 佐々木一夫
あく抜きが要りますが、橡は人にとって欠かせない食料でした。その橡の北限は小樽付近だそうです。作者は北海道にゆかりがあるのでしょうね。橡の実が落ちていると自然に拾ってしまう。〈蝦夷の地や〉に思いがこもります。
エンジンを切れば闇濃しちちろ鳴く 日澤 信行
ご自宅の駐車場か、運転途中でありましょうね。車をとめてエンジンを切った……。とたんに闇の深さを感じ、ちちろの声が聞こえてきたという一景。動作から視覚、視覚から聴覚への変移が自然で、読者にもよく伝わります。
秋真昼柩に入るる妣の写真 加納 聡子
妣は亡くなった母。その写真を棺に入れるということは、棺の主は作者の父上でありましょうか。秋真昼という時刻の説明のような季語に、作者の思いがあふれます。
彼岸花気温高きに出そびれぬ 大木雄二郎
例年ですと秋彼岸の数日前に咲き出す彼岸花。ことしは十日ほども遅れて咲き出しました。言われてみるとそれまでの気温が影響しているのでしょうね。
送り火の残る夜空に風の音 岩橋 俊郎
京都、五山の送り火でありましょう。夜空を彩り、やがて消えてゆく送り火を見遣る作者。一つの季節が行くというと大袈裟ですが、日常を一区切りしつつ消えてゆく火を感慨深く見つめる作者が思われます。
正座して硯に向かふ秋の午後 小谷 愛
墨書とか写経、あるいは文かもしれません。静かに硯に向かい墨を磨る作者。秋の午後の穏やかな一景です。
炊きたての飯の香りの稲の花 杉本 綾子
九時すぎから咲き始める稲の花。昼を過ぎた頃には穎(えい)は閉じ、雄蘂が穎の外に見えます。これを咲いている状態と勘違いする人も多いのですが、これは不要になった雄蘂が穎の外に残された状態。この稲の花、咲き始めてしばらくは白飯の匂がします。微かな香りに気づきました。
洋梨は農家の寄付や学園祭 関根由美子
文化・芸術の成果を披露する学園祭。付随して学生達手作りの露店などで賑わいます。人気の洋梨を近所の農家が提供してくれる。地域に根づいた学園が思われます。
風船葛の静けき揺らぎそを愛す 髙松眞知子
色々な花や実を見せてくれる植物たち。そんな中でも風船葛の実はその形を楽しませてくれる代表格とも言える存在です。中のハート型の種も楽しみですね。
虫除けの鬼やんま付け草むしり 神出不二子
〈虫除けの鬼やんま〉、一体何だろうと思われましょうが、これは鬼やんまのレプリカ。鬼やんまは雀蜂を捕食するなどの強力狩人で、蜂や虻などの虫除けに利用されます。
境内を掃きながら聞く虫の声 近藤登美子
神社での奉仕活動でしょうか。境内を掃くご褒美のように鳴く昼の虫が作者の心をさらに和らげてくれます。
住み慣れて見上ぐる街の星月夜 長尾眞知子
星月夜といいますと、どちらかというと山林近く照明のない場所が思われますが、掲句は街なか。考えてみますと、空が少々明るくても星月夜と感じることがありますよね。身近な星月夜です。
秋うらら今日も俳句と歩みつつ 平本 文
うまく出来ることも、ちっとも出来ない時もありますが、いつも身近に俳句がある……。探す、感じる、表現する……。全て人生を活性化してくれます。俳句の良さですね。
敬老日ダンス仲間と祝ひ合ふ 中尾 礼子
若々しくておきれいで、とてもお年には見えない作者。その秘密がダンスなのですね。ダンス仲間との敬老日。賑やかだったことでしょう。
戸を蹴り上ぐるほど乱暴に台風来 星私 虎亮
台風の様子はあれこれと詠まれますが〈戸を蹴り上ぐるほど〉という把握には始めて出会いました。言われてみると確かに最近の台風は思っている以上に乱暴です。
秋めくや我を励ます深呼吸 入江 緑
ご自分でご自分を励ますように深呼吸……。深呼吸でも腹式呼吸でもそうですが、胸を反らして息を吸ったり吐き出したりすると身も心も軽くなるものです。
敬老日も板につきたる八十路かな 大前 繁雄
かつて衆議院議員であった作者。敬老会のお世話なども積極的にされているのでしょうね。会の運営にもいつしか慣れて……。〈板につきたる〉はまさに実感でしょうね。
秋団扇大きく使ひ照れ隠す 神田しげこ
ちょっと誉められたり持ち上げられたりで照れている場面。秋団扇をつかって照れ隠しするという行為に成程と納得します。小道具をうまく使いました。
螺鈿にも海の記憶や若冲忌 佐野 瑞季
若冲は江戸中期の画家。画家ですので緖方光琳のように螺鈿を使った作品はありません。しかし「老松白鳳凰」などの絵には螺鈿かと思わせる光沢があります。螺鈿と若冲との微妙な関係をうまく把握しました。
夕映えの花野を稚の走りゆく 高岡たま子
歩きはじめ走り始めた二、三歳の稚でありましょう。花野の開放感感じつつ、両手でバランスを取って走る子。可愛らしい様子が見えるようです。
以下、選評を書けなかった作品、当月抄候補作品から
あかね雲見て急く帰路や赤蜻蛉 林 雅彦
幼子の衣囊溢るる木の実かな 松谷 忠則
外晴れて敬老の日の漫歩かな 山本 創一
秋の宵幕電ひかる六甲山 秋山富美子
葬列を送る片方に烏瓜 伊丹 弘子
子見送り白露の月を眺めけり 高橋 佳子
十五夜や昭和のジャズとグラス酒 谷口智恵己
夏羽織脱ぎ皿屋敷佳境へと 野村よし子
二百十日指先で見る朝の風 福原 正司
あお向けの蟬の骸が吹かれをり 溝田 又男
外灯のみな沈みゆく霧の夜 村川美智子
コンビニで出会ひしペアも月の客 渡邊 房子
四人目の曽孫誕生待つ夜長 井上 妙子
島風に吾も蜻蛉も吹かれをり 榎原 洋子
一枚の刈田に鳥の多きこと 大澤 朝子
あれこれを活けて酒注ぐ月今宵 越智加奈子
台風の眼と睨み合ふ予報官 鎌田 利弘
窓際や心地良さげに青蜥蜴 河井 浩志
途切れなく夜の奥よりちちろ虫 児島 昌子
秋の空鳶に縺るる鴉二羽 佐々木慶子