俳句についてもう少し詳しく勉強しよう

初心者のための俳句入門講座         朝妻  力

俳句詳説2

ここでは俳句とは何かにつきまして、歴史的背景を踏まえながら説明してゆきます。俳句を学ぶ上でのキーワードは緑色にし、章の終わりに簡単な説明を付したことは第1章と同じです。 
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2-1 神々のうた

 和歌は漢詩に対する日本独特の文学として生まれました。始めての勅撰和歌集である古今集の仮名序(かなじょ)

花に鳴く鶯、水に住むかはず(かわず・蛙)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いずれか歌をよまざりける。

とあります。「鶯や蛙の声を聞いていると、生きているもので、歌を詠まないものなど無いように思われる」、というほどの意味です。序文ではさらに、歌は鬼や神様の心を動かし、天地を動かし(雨乞いとか、豊作祈願など…)、男女の中を和らげ、荒々しい武士の心をも慰めてくれる、と書かれています。

 このように賛美される、歌と呼ばれる詩ができたのはいつの頃でありましょうか。実際には文字の輸入される何百年、何千年も前から存在していたと思われます。荒ぶる神をおとなしくさせるための呪文とか、うれしいときの叫びとか、願いごとを唱えるなど、一定のリズムを持った歌が存在していたに違いありません。事実、5・7・5・7・7という、現在の短歌の形になったのは、神代の時代でした。

 古事記に、須佐の男の命(すさのおのみこと)が、足名椎(あしなづち)という国つ神(土着の神)に頼まれ、八俣の大蛇(やまたのおろち)を退治するお話がでてきます。大蛇を酒に酔わせ、みごとに退治した須佐の男の命は、約束通りに足名椎の娘、櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚できたのでした。そのときの喜びの歌が、

八雲たつ 出雲八重垣。
妻隠み(つまごみ)に 八重垣作る。
その八重垣を。                    歌謡番号1番

です。これを句読点 。 を抜いて読んでみますと、みごとに5・7・5・7・7となっていることが分かります。この歌こそ、和歌の嚆矢(こうし)といわれる一首であり、古事記歌謡の第1番に据えられているのです。

 古事記からもう一つの歌謡を紹介しましょう。倭建の命(やまとたけるのみこと)は、父である景行天皇の命令を受けて日本各地を平定したことはご存知のことと思います。その倭建の命が東国十二国の遠征からの岐路、今で言う甲府市で

新治(にいはり) 筑波を過ぎて 幾夜か 寝つる   歌謡番号26

新治も筑波も茨城県の地名。「新治の筑波を過ぎて、幾夜寝たのであろうか。」とつぶやきます。そばで聞いていた、御火焚(みひたき)の翁がすかさず

かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を  歌謡番号27

と返しました。余りのみごとさに、この翁を「東の国の造(みやっこ)」にしたということです。このように、現代に伝わる最古の系統だった歴史書(あるいは系統だった物語)に、いくつかの歌が登場するということにも、先人の歌に対する思いの深さが感じ取れます。


和歌...漢詩に対する日本の歌。倭(やまとうた)ともいう。はじめは長歌、旋頭歌なども含んでいたが、やがて短歌だけをさすようになる。

勅撰...ちょくせん。勅命(天皇の命令)によって編集された和歌集。

古今集...こきんしゅう・醍醐天皇の命により、紀友則(きのとものり)、紀貫之(きのつらゆき)ら4名が編集した。

仮名序...かなじょ・古今集には二つの序文がある。一つは仮名まじりの日本語で書かれ、これは仮名序と呼ばれ、古今集の冒頭に配置されている。一方巻末には漢文で書かれた序文があり、これは真名序(まなじょ)と呼ばれている。当時、日本の正式文書は漢文であった。そこで漢文のことを真名という。

古事記...天武天皇の命で、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた古い物語を、太安万侶(おおのやすまろ)が書いた。和銅5年(712年)成る。

嚆矢...こうし・ものごとの始め。昔、中国で戦の始めに嚆矢(かぶらや)を射たことによる。

倭建の命...伝説上の英雄。景行天皇の皇子。

東国十二国...伊勢・尾張から東、陸奥まで。




2-2 万葉歌人たち

 古事記歌謡は、7・5調を基本にしていますが、5・7・5・7・7の定型をはっきりと意識した歌はむしろ少ないのが特徴です。これが万葉集となると、5・7・5・7・7は完全に定着してきます。とは言っても、万葉集には三つの形式の和歌があり、その内の短歌が5・7・5・7・7であるのです。三つの形式といいますのは

長歌   ちょうか 七五調を基本とした比較的長い歌
短歌   たんか  5・7・5・7・7のリズムをもった歌
旋頭歌  せどうか 5・7・7・5・7・7のリズムをもった歌

をいいます。まずは実例を見て見ましょう。まず、軽の皇子(かるのみこ)が安騎野(あきの)に狩に出かけたとき、随行した柿本人麻呂の作った歌。

やすみしし わが大王(おおきみ) 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京(みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は …中略… み雪降る 安騎の大野に 旗薄 しのをおしなべ 草枕  旅宿りせす いにしえ思いて
短歌
東(ひんがし)の 野にかぎろひの立つ見えて かえり見すれば 月かたぶきぬ

 冒頭の、「やすみしし」から、「いにしへ思ひて」までが、長歌と呼ばれる部分です。7・5調で作られいることがわかります。短歌は4首あるうちの最も知られている1首だけを紹介しました。ところで、この短歌は、江戸中期の国文学者賀茂真淵(かものまぶち)の名訓で知られています。原文は

東野炎立所見而反見為者月西渡

という、味もそっけもないような代物です。真淵以前は、「あずま野の けぶりの立てるところ見て かへり見すれば 月傾きぬ」 と読んでいたそうですが、色々の意見がでて、どうも読みが定まらない。しかし、「ひんがしの 野にかぎろひの…」 という真淵の読みが余りにも見事なので、その後、正しい読みはどうなのかという意見さえ出なくなったということです。
 いずれにしましても、7・5調というのは、非常に唱えやすい。実際に音を出して読んでみてください。これらの歌は、書いて記録したのではなく、その場で音読して披露されたものという感じをもたれることと思います。人麻呂や山辺赤人(やまべのあかひと)などの宮廷詩人は、半ば即興で皇族方を寿ぎ、あるいは天地を誉め、あるいは人の死を悼む歌を作り、その場で披露していたのでありましょう。心に残る多くの歌を残しております。

淡海の海 夕浪千鳥汝が鳴けば 心もしぬに いにしへ 思ほゆ   人麻呂
若の浦に 潮満ちくれば潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴きわたる   赤 人 

 この若の浦は、現在の和歌の浦。歌人の土岐善麿は、この一首から笛と鼓のみごとに調和した謡曲、「鶴」を作り上げました。

 さて、旋頭歌についても例をみてみましょう。貧窮問答歌などで知られる山上憶良(おくら)に次のような歌があります。

秋の野に 咲きたる花を 指折りて かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 女郎花(おみなえし) また藤袴(ふじばかま) 朝がほの花

始めの一首は5・7・5・7・7で短歌。次の一首は5・7・7・5・7・7で、これが旋頭歌と呼ばれるものです。季語でいう「秋の七草」とはここからきているのか、と気づかれた方も多いことでしょう。最後の朝がほの花は、朝顔ではなく、桔梗の花のことであると言われております。

 万葉集には、天皇から、防人などの一般の人たちまでの、数多くの歌が収められています。万葉秀歌などの題で、いい歌を抜きだして解説した本もでています。皆さまもぜひご一読下さいますよう…。


万葉集...現存する最古最大の歌集。奈良時代の末ころ(780年ころ)の成立と考えられている。

三つの形式...実は長歌・短歌・旋頭歌のほかに、仏足石歌碑体という歌体の歌がある。5・7・5・7・7・7・で、奈良薬師寺の仏足石歌碑とよばれる歌碑群の歌体がこれと同じであることから、そう呼ばれている。

柿本人麻呂...天武・持統・文武朝に仕えた六位以下の役人。山辺の赤人とともに宮廷歌人であり、後世にはともに歌聖とたたえられた。

安騎野...あきの・奈良県宇陀郡。かぎろいの丘がある。



2-3 和歌の復活と連歌の発生

 万葉集のあとは漢詩が隆盛し、和歌はしばらくふるいませんでした。宮中でも和歌の会がまったく開かれないという状態が続いたのです。しかし万葉集以降100年以上を経た醍醐天皇のころ、次第に和歌への機運が盛り上がってきました。905年にはついに勅撰(ちょくせん)和歌集第1号である、古今集が成立しました。

 その後和歌は、主に皇族・貴族・僧侶など上流社会の人々の教養として発展してきました。古今集などについてはここでは省かせていただきます。いろいろな解説書や文庫本が出ておりますので、書店に立ち寄ったさいでも覗いてみてください。

 さて、短歌は初め1人で作るものでしたが、平安時代にこれを何人かで詠み継ぐ連歌という形式が発生しました。これは、2人とか3人・4人と集まり参加者全員で短歌を詠みついでゆくものです。まず初めの人が、5・7・5を詠みます。この始めの5・7・5は発句(ほっく)と呼ばれるもので、後年この発句が独立した形で俳句へと発展して行くのです。(脚注および子規の俳句革新参照)。次の人が発句の内容を受け7・7と継ぎます。この7・7は脇と呼ばれ、発句を浮けて次の句につなぐ役割を果たします。更に別の人が5・7・5と発展させるのです。始めての連歌撰集は平安中期に二条良基らが編纂した莵玖波集(つくばしゅう)であるといわれておりますが、ここでは鎌倉時代の飯尾宗祇らによる連歌、水無瀬三吟百韻から実際の作品をみてみます。

呼び方 作 品 作者 字数
発句 雪ながら山もとかすむ夕べかな 宗祇 5・7・5
行く水遠く梅匂ふ里 肖柏 7・7
第3 川風に一むら柳春見えて 宗長 5・7・5
平句 舟さす音もしるき明けがた 宗祇 7・7
月やなほ霧わたる夜に残るらん 肖柏 5・7・5

声を出して読んでみてください。難しそうに見える連歌が、声を出して2度3度と読むうちに意味も分かるようになりますし、調子も上がってきます。そして情緒溢れる、優雅な遊びだったことも分かります。このように連歌は、和歌の格式としきたりを重んじた知的遊戯であったわけです。



二条良基...1320~1388 南北朝時代の公卿、歌人。北朝の摂政となり政治文芸に活躍した。

莵玖波集...つくばしゅう 2-1章参照。倭建の命が筑波をしのんで翁に歌で呼びかけ、翁が歌で応えたことから、連歌を筑波の道という。

飯尾宗祇...1421~1502 室町後期の古典学者、連歌師。連歌の美を完成させた人である。



2-4 俳諧歌(はいかいか)

 さて、和歌は普通、春・夏・秋・冬・賀・離別・羇旅・物名・恋などに分類されました。特に歌集を作るときなど、分類して集める必要があったからです。そしてどれにも分類出来ない歌を雑体と呼んでいました。その雑体の歌の一種に俳諧歌があります。古今和歌集から一例を拾ってみます。

睦言(むつごと)も まだ尽きなくに 明けぬめり
  いづらは 秋の長してふ夜は  てふ:ちょうと読む。…と言うの意

 睦言もまだ言い尽くしていないのに、はや夜が明けてしまった。どうした、秋の夜は長いと言うのにちっとも長くないではないか。現代語で言えばこのような内容になりましょうか。秋の夜長という通念を皮肉った、諧謔みを帯びた作品です。このような作品が俳諧歌と呼ばれたのです。俳諧については、三冊子(さんぞうし)に、

俳諧と云うは黄門定家卿の云ふ、利口なり。物をあざむきたる心なるべし。心なきものに心を付け、物言わぬものに物言わせ、利口したる体なり。

とあります。藤原定家が言うには、俳諧とは、口を利かないものに口を利かせる、常識をあざむくのが俳諧であるというのです。続いて三冊子は

俳は戯れなり、諧は和(調和)なり

とも説明しています。戯れ・諧謔・滑稽などがうまく調和している状態が俳諧という言葉の本来持っていた意味と思われます。


三冊子...芭蕉の門人、服部土芳の編纂した芭蕉の言行録。土芳は芭蕉と同郷の人。三冊子は去来抄と共に、最も忠実に芭蕉の意志を伝えていると言われている。

黄門定家卿...1162~1241 藤原定家のこと。新古今集の編纂やその日記名月記、小倉百人一首の選でもしられる歌人。



2-5 俳諧の連歌

 さて、飯尾宗祇らによって確立した連歌の方式ですが、これはどちらかと言うと和歌の情緒や題を継承したものでした。お行儀のよい、すまして行う歌会であったのです。人によってはちょっと窮屈な集まりでありました。

 そんなおり、前述の俳諧歌で連歌をすると思わぬ面白みが出ることが分かったのです。これが俳諧の連歌として、またたくまに広がりました。なにしろ和歌のしきたりや題をしらなくても出きる。面白おかしい場面もたくさんある。そんなことで、貴族や僧侶だけでなく、裕福な町民までも参加しての一大ブームとなったのです。

 前章で述べたように、俳諧歌の本領は戯れや機知や滑稽さにあります。俳諧の連歌(または俳諧連歌。後には単に俳諧と言えば俳諧の連歌をさすようになる)が成立したころの、その滑稽さとはどんなものであったか、例をみて見ましょう。

 「俳諧の連歌」の創始者の一人といわれる荒木田守武(あらきだもりたけ)が、ある夜、連歌の会に出席しました。見まわすと先客はみな法体(ほったい・僧侶の姿)です。そこで

お座敷を みれば何(いず)れも かみな月

と詠みました。かみな月は神無月、旧暦の10月のことです。これが季語であるわけですが、かみな月はまた髪がない、すなわち髪無月にも通じます。この連歌の席にはみな髪を剃った法体の人がそろっていることよ、と洒落たわけです。ちなみに、荒木田守武は伊勢神宮に仕える神官でありました。かみな月の洒落に気づいた一座の人々はどっと笑ったことでしょう。俳諧連歌の第1句めを発句(ほっく)ということは前に説明した通りです。そこで先客の一人、飯尾宗祇(いいおそうぎ)

ひとり時雨の 古(ふ)り烏帽子(えぼし)着て

と脇(第2句め)をつけます。神無月という季節を受け、時雨が降(フ)るに、古(フ)り烏帽子を掛け、守武と同じく言葉遊びで応じたわけです。一座は発句のときと同じように、どっと湧き立ったことでありましょう。

 前の連歌の席と、この俳諧連歌の席の様子をおのおの思い浮かべてみてください。俳諧連歌の座は肩肘のはらない、どっと砕けた席であるということが、容易に想像できることと思います。

 これらの句を少し詳しく検討しますと、座に入ってすぐに(即興)、挨拶代わりに、そして座をどっとわかせる内容(滑稽)であることが分かります。この即興・挨拶・滑稽が、初期俳諧の特徴でありました。滑稽とはどういうことか、この2人の、別の句をみてみましょう。

手をついて歌申し上ぐ蛙かな      山崎 宗鑑

落花枝に返るとみれば胡蝶かな     荒木田守武

 もうお気づきの方もあるかと思いますが、宗鑑の句は、前にも引用した古今集の仮名序をひねったものです。仮名序は

花に鳴く鶯、水に住むかはずの声を聞けば、生きとし生けるもの、いずれか歌をよまざりける。

でした。その通り、蛙めはまさに手をついて歌を申し上げております。このような詠み方を、本歌取りとも言っています。一方、守武の句は、「おや、散ってゆく桜の花びらが枝に戻ってゆく。あれ、あれ、花びらと思ったら、蝶々であったか…」というこれも軽い機知。

 俳諧の連歌が記録になったのは、この荒木田守武による守武千句、山崎宗鑑らによる犬莵玖波集などといわれています。その中から、もうひとつ例をあげてみましょう。

かすみの衣 すそは濡れけり

さを姫の 春立ちながら 尿(しと)をして

この句は、少々説明を要します。まず、さを姫は佐保姫、奈良の佐保川の女神で、春を呼ぶ神様でもあります。「かすみの衣の裾が濡れている」という前句を受け、佐保姫の立ち小便を持ち出しているのです。立つは春が立つと同時に、女神であるから布を裁つ(たつ)という掛詞にもなっているのです。和歌や連歌の世界では考えられない光景となってしまいました。

 これは完全に和歌の格式から離脱しています。卑俗になった分、上流でない人達、つまり一般の人達の圧倒的指示を受けました。貴族・僧侶の趣味であった連歌が、一挙に庶民の間に広まったのです。


荒木田守武...1473~1549 室町後期の連歌俳諧師、伊勢神宮の神官であった。宗鑑と共に俳諧の祖と呼ばれる。

山崎宗鑑...生没年不詳 室町後期の連歌俳諧師。俳諧の祖と称される。

犬莵玖波集...連歌集「莵玖波集」をもじって命名された俳諧連歌集。犬は役に立たないことの喩えで例えば、犬侍、犬たで、犬死などと使われた。


 

2-6 松尾芭蕉の出現

 俳諧はあらゆる階層の人達を言語遊びという知的なゲームに誘いました。しかし年月を重ねるに従い、陳腐化し形式化し、あるいは権威化してゆきます。江戸時代は松永貞徳の門流、いわゆる貞門が俳諧の主流となっていました。

 松尾芭蕉は伊賀上野の無足人といわれる、松尾家に生まれました。19歳で藤堂藩主の嗣子、藤堂良忠に仕えて貞門俳諧を学びましたが、良忠が病没したのを機に出奔し、本格的な俳諧修行に入ります。芭蕉23歳のことと伝えられています。江戸に出た芭蕉は、当時の新風である談林俳諧にひかれ、次第に俳諧師としての名を上げてゆきます。

 しかし芭蕉はその談林俳諧にももの足りなさを感じるようになりました。滑稽や洒落、うがちやひねりといった俳諧のあり方に疑問を感じてきたのです。そして、次第に俳諧そのものに人生観を移入していきました。ついには言葉遊びとしての俳諧に文学性を持たせることに成功したのです。言いかえれば、貞門や談林でない新しい俳諧が誕生したのです。人々は芭蕉の作風を蕉風と呼び、芭蕉の門弟たちを蕉門と呼ぶようになりました。

古池や蛙飛びこむ水の音   芭焦

さみだれを集めて速し最上川  同

荒海や佐渡によこたふ天の川  同

行く春を近江の人と惜しみけり 同

 これらの作品をみると、滑稽やひねりなどの趣向は全く感じられません。言葉遊びという要素がなくなり、言葉を通じて美的感動や、作者自身の感慨を述べるという態度に徹しているのです。

 作者と読者という関係で考えますと、奇抜なことを言って読者を面白がらせようとか、故事来歴や漢詩に詳しいところをみせて読者を驚かせようとか、そんな意図がまったくないのです。初期俳諧の荒木田守武や山崎宗鑑の章で説明した即興性や挨拶性は残っているのですが、滑稽さは完全になくなっています。このへんが、俳諧を文学の域に高めたと言われるゆえんでもあります。

 ここで、これからの句作りに役立つと思われる芭蕉の俳句理念や言葉を二、三紹介しておきましょう。

俳諧は3歳の童(わらべ)にさせよ  3歳の子供には、あれこれ理屈を考えたり、故事来歴などをひねくりまわしたりする能力はありません。そのかわりに、虫、魚、馬、花など、なにに出あっても、新鮮な心で接することができます。俳諧はあれこれ考えることではない、新鮮な目で見、新鮮な耳で聞いて作りなさいと教えたのです。

軽み  軽みは、重みに対する言葉として芭蕉が言い出しました。重みのある句とは、観念的な句、粘っこくて理屈っぽい句をさします。ようするに頭の中で考えた句。それではいけないのだ、観念的ではない、見たまま、聞こえたままの句がいいのであるというのです。これらは、現代でもそのまま通用する言葉です。

不易流行(ふえき・りゅうこう)  不易は変わらないもの、流行は変わるものをさします。したがって不易流行といえば、変わらないものと変わるもの。これによく留意しなさいと言っています。具体的に何が不易で、何が流行なのかは示されていませんが、たとえば、5・7・5で作る、いわゆる定型で作るということはまさに不易であります。これは俳句があるかぎり変わりません。しかし、滑稽な句を作る、いやもっとまじめに作ろうなど、句の内容には明らかに流行があります。

 季語にも不易流行があります。例えば、蓑虫という季語の本意本情は平安時代も現代も少しも変化がありません。しかし流氷といいますと、大正・明治以前は春になって沼や川を流れてくる情景でしたが、いま流氷というと、オホーツクの、あの流氷をさすようになってしまいました。何ごとにも不易流行がある。そんなことを考えながら作句したり、鑑賞する。こんな態度も大切なように思います。


松永貞徳...1571~1654 江戸初期の俳諧師。当時の俳諧から卑俗臭を取り除き、俳諧式目を定めた。彼の門流を貞門という。

談林...貞門に反発する形で発生、漢語を使うなど自由な作風で知られる。大阪の西山宗因を祖とし井原西鶴などが活躍した。

蕉風・蕉門...しょうふう・しょうもん。なお、立場によって蕉風を正風と書くこともある。

本意本情...季語の持っている意味やその奥に含まれる趣のこと。清少納言の枕草子に、蓑虫は鬼の子であるが、その親は、秋になったら迎えにくると偽って、逃げていってしまった。そこで蓑虫は秋風の吹くころになると、そろそろ父親が迎えにくるころだと思い、チチヨチチヨとはかなげに鳴く。とあり、これを踏まえて詠まれた俳句が多い。

蓑虫の音を聞きに来よ草の庵(いほ)   芭蕉
 
蓑虫のちちよと鳴きて母もなし      虚子
 
秋風を聞くかに鳴きし蓑虫よ       盤水




2-7 芭蕉以後の江戸の俳諧

蕪村
 芭蕉亡きあと、俳壇は再び一種の停滞状態に陥りました。一つに俳諧がもっぱら面白おかしさを追う言葉遊びになってしまった。二つには門人の作品に点を付けて生計を立てる、いわゆる点取り俳諧が横行し、作品の質そのものが低下してきたのです。

 そんな時期、芭蕉没後100年ほどして活躍したのが与謝蕪村(1716~1784)です。蕪村は今の大阪市都島区毛馬町に生まれ、22才で江戸に出て俳諧、絵画の修行に励みました。その後関東各地を経て京に移り、京を画業、俳諧の拠点とします。55才で亡師、宋阿を継いで夜半亭二世と称し、66才で洛北の金福寺に芭蕉庵を再建したのです。絵画的で色彩感濃厚な作品や物語性のある作品を残しました。俳諧の衰退を憂い、芭蕉の遺徳をしのび「芭蕉に帰れ」と唱えた人でもありました。

牡丹散つて打ちかさなりぬ二三弁      蕪村

五月雨や大河を前に家二軒          同

菜の花や月は東に日は西に          同

春の海ひねもすのたりのたりかな       同


一茶

 小林一茶(1763~1828)は、信州柏原の人です。3歳で実母を失い、継母との軋轢(あつれき)に耐えかね、15歳で郷里を出奔しました。江戸で辛酸をなめつくしたのち、葛飾派の二六庵竹阿の門人として注目を浴びるようになったのです。師の没後、二六庵をついで指導者となりましたが、同派の人々と折り合いはよくなかったようです。

 五十歳で相続問題が決着し、柏原に帰って遅ればせながら結婚します。しかし、4人の子は次々夭折し、妻とも死別するという悲運に見まわれます。65歳で再々婚の妻に看取られて亡くなったのですが、この妻の腹に宿っていた子が、一茶の系譜を今に伝えています。

 俳諧はかくあるべき、などという主張は特になかったようですが、方言や俗語を自在にあやつり、独特の俳句を残しました。特に、弱いもの、小さいものへのいたわりを込めた作品は今でも多くの人に愛唱されています。

雀の子そこのけそこのけお馬が通る     一茶

めでたさも中ぐらいなりおらが春       同

これがまあ終の栖か雪五尺          同

 江戸期の俳諧を考えるとき、以上、芭蕉・蕪村・一茶の3人を省く訳にはいきません。3人とも人々の心を打つ数々の作品を残しました。

 ある人はこの3人を評して芭蕉は道、蕪村は芸、一茶は生、と言っております。3人の作風や生きざまをピタリと言い当てているように思いますが皆さまの印象はいかがでしょうか。

 
 俳句詳説1・2は以上で終わります。
例句などの引用文は、これから俳句の話を聞いたり読んだりするに際し、出きるだけ役立つものを意識して選びました。