四季巡詠33句
「俳壇」4月号
今城塚古墳公園 朝妻 力(雲の峰・春耕)
公園は継体御陵春の風
冴返る慶長伏見地震(ない)の跡
石棺のかけらも宝春めきぬ
墳丘の裾に菜園茎立ちて
鍬肩に翁の過ぐる雨水かな
雑木いま芽吹きの色をちりばめぬ
連凧の千切れ吹かるる楢の枝
春日燦鳴きて小走る鳥一羽
敷石の隙見逃さず菫咲く
畏みて今城塚の青き踏む
石棺のありし真上に春落葉
仲春や鳶を追ひゆく鴉二羽
小綬鶏や継体王に挑むかに
すかんぽを嚙みては飛ばし陵巡る
記紀の世のこゑのびやかに春の鳶
子二人と手つなぐ父御うららけし
墳墓守る円筒埴輪春日濃し
陽春や今城といふ大王墓
大君の諱(いみな)は男大迹(おほど)桜東風
石棺のありたる阜桜咲く
うぐひすに腰をかがむる俳句衆
丘陵の裾縫ふ小道風光る
継体陵に日の燦燦と揚雲雀
祭祀場に埴輪が二百あたたかし
春の日に御饌捧げゐる巫女埴輪
のんどりと鞍置く馬の埴輪かな
馬に付く牛の埴輪ものどけしや
太刀凜と武人の埴輪春日濃し
力士埴輪は土師(はじ)氏の名残春深し
遠足の子らが埴輪に乗りはしやぐ
むつまじく濠に三羽の鴨残る
いくたびも濠をかすむるつばくらめ
大王の墳丘仰ぎ春惜しむ
作品八句
東京四季出版「俳句四季」4月号
寒鴉鳴く 播广義春(雲の峰・銀漢)
生駒背に冬の大川出航す
川に沿ひ残る紅葉の色極む
適塾に隣りし銅座跡小春
風出でて綿虫消ゆる薄暮かな
堰を越え簾のごとき水烟る
小春日の札所に並ぶ六地蔵
丈六の阿弥陀に参る年の暮
春日社の空に彩雲寒鴉鳴く
他誌拝読 小山 雄一
佐藤 風代表「燎」6月号
「雲の峰」四月号
「雲の峰」について
*通巻406号
*主宰 朝妻 力
*組織 大阪府茨木市に本部。近畿を中心に小樽から屋
久島まで各地に25の句会、通信句会を擁す。
*主張。「俳句は17文字の自分詩、そして一日一行の自
分史」
本四月号は118頁の大部。表紙の「梅花藻」の絵が季節感を表している。
最初に「先師の一句」として先師「皆川盤水師」の句と解説。続いて見開きに主宰選の「当月抄」が78句。次に主宰者朝妻氏の作品17句。その中より五句
朽ち船を這うては引ける春の潮
のどけさに倦みて子牛の長きこゑ
北摂の山のたかきに春北斗
スキップで父を追ふ子や風光る
春めくや鳶に挑める鴉二羽
7頁からは「常葉集」。同人11氏の作品各9句が並ぶ。
その中から筆者が好きになった各氏の一句。
吸ひ込まれさうな青空寒明くる 酒井多加子
雉鳩の番来てゐる春隣 杉浦 正夫
鉢巻をきりりと舞妓鬼の豆 高野 清風
寒昴遠き日の師の言葉ふと 長岡 静子
産土の杜の静寂や余寒なほ 中川 晴美
美術展へ母が見立てし春袷 原 茂美
水煙の天女二月の空に舞ふ 藤田 壽穂
柊の花の香れる裏鬼門 吉村 征子
飴なめて払へるほどの春愁 浅川加代子
柵越しに山羊と話す子木の芽風 井村 啓子
宍道湖の藻の香をほのと蜆汁 小澤 巌
次いで主宰選の「照葉集」、同集同人51氏、各8句。続いて主宰の「常葉・照葉集選後所感」。やさしく丁寧な主宰の選評。
更に主宰選の「青葉集」に会員61氏、各9~7句。最後に「若葉集」、59氏、各6~5句があり、最後に両集について主宰「所感」が載る。
以上の句集の後、「課題俳句」の選と評が5頁分。今月の課題は「薄氷」だった。また主宰による『俳句の肝どころ「俳句入門」』の連載、今号は【助詞「を」の性質と省略】が説かれており、勉強になる。
拝読して掲載された作品の多さに圧倒された。全体の印象は「やわらかで分かりやすい句が多く」会員の裾野の広さを感じた。また朝妻主宰はじめ指導者の方々の熱意も感じることができた。
「雲の峰」が目指すと言う「初心者からベテランまでの 学習型結社」が具現されているとも思った。
一句一会 川嵜 昭典
加古 宗也主宰「若竹」6月号
記紀の世のこゑのびやかに春の鳶 朝妻 力
(『俳壇』四月号「今城塚古墳公園」より)
「記紀」は古事記と日本書紀のこと。古事記には鳶は登場しないが、日本書紀には神武天皇に日本建国を導いたとされる「金鵄(きんし)」という金色の鳶が登場する。日本書紀の成立は西暦七二〇年頃だと言われるが、思えば、その頃から書物に鳶が登場し、その鳶がずっと今の世も泣き続けているというのは不思議なことだ。人間も変わらないが鳶も変わらないのか、人間も鳶も変わってしまったのか、それは分からないが、いずれにしろその声は変わっていない。掲句はその変わっていない声一点のみに感じ入っており、その一声で千年以上の時を遡ることができるのは俳句のいいところだ。
現代俳句鑑賞 朝田 玲子
尾池 和夫主宰「氷室」六月号
記紀の世のこゑのびやかに春の鳶
「俳壇」四月号 朝妻 力(雲の峰 主宰・春耕)
「今城塚古墳公園」と題された三十三句の中の一句である。大阪府北部の高槻市にある今城塚古墳は、六世紀前半の築造としては最大の前方後円墳で、継体天皇の陵とする説が有力だ。武人や巫女や力士、家や軍馬などの精巧な形象埴輪が数多く出土しており、今では整備されて市民の憩いの場となっている。この三十三句を辿ると、筆者もまた木々の芽吹きを味わい、伏見地震の跡を見、継体天皇の生涯や土師氏に思いを馳せつつ巡り歩いている気がしてくる。
作者は掲出句において、空に響きわたる鳶の声を「記紀の世のこゑ」と表現し、六世紀からの十数世紀間を一瞬へと凝縮し昇華させた。この十七音の世界の何と豊かなことだろう。
俳壇の今 中沢 利郎
井上 康明主宰「郭公」6月号
記紀の世のこゑのびやかに春の鳶 朝妻 力
(俳壇四月号)
四季巡詠三三句「今城塚古墳公園」より。
同古墳は大阪高槻市にあり、第二十六代継体天皇の陵墓とされている。市のHPには「埴輪祭祀場は、家、人物、動物など二百点以上の形象埴輪が整然と並んでいます。大王のハニワ祭が再現されているのは日本でここだけです」と書かれているが、宮内庁の治定は受けておらず、却って、一般人の立ち入りが可能であり、市民の憩いの場となっている。
この三三句を通して読むと、老若男女が集う同公園の全容が把握できる許りでなく、通い続ける作者の愛着を見て取ることができる。
中でも掲句は、情景を大らかに詠い上げ、春の公園の麗らかさを現前させる。長い歳月の間に被った様々な人災、天災、その跡を今に留めてはいるが、上空には昔のままに、悠然と「鳶」が旋回している。「こゑのびやかに」に、悠久の思いに浸る作者が想像できる。
現代俳句月評 中村能乃子
中尾 公彦主宰「くぢら」6月号
敷石の隙見逃さず菫咲く 朝妻 力
(「俳壇」四月号四季巡詠33句「今城塚古墳公園」より)
敷石の隙に菫を見つけ、こんなところにと思わず足を止めての一句。零れ種からでしょう思わぬところに花を咲かせる菫には健気なイメージがあります。わざわざそんなところを選んでいるようにさえ思える逞しさも見えます。日本はスミレの種類が多くスミレ王国と呼ばれているそうです。歳時記の菫の傍題が多いのも芭蕉の時代から俳人に愛されてきた証のようです。
鑑賞「現代の俳句」 倉林 美保
蟇目 良雨主宰「春耕」6月号
春日社の空に彩雲寒鴉鳴く 播广 義春
〔雲の峰・銀漢〕
[俳句四季 二〇二五年四月号より]
彩雲は古来から瑞雲などと呼ばれ、見ることが出来たなら、良いことが起こる前触れなどと言われている。この彩雲が春日社を参拝した折に現れたのだった。今年も良いことがありそうだと思った時、それを肯定するかの如く寒鴉が鳴いた。
春日社の朱色、彩雲の目出度い色と寒鴉の漆黒色の取り合わせも偶然とはいえ幸先の良い出会いだった。
一誌一句 岩佐 久
松村 五月主宰「響焔」6月号
正忌矢のごとしや庭に白き蝶 朝妻 力
他誌拝読
永沢 達明主宰「凧」6月号
「雲の峰」四月号 朝妻 力主宰
朽ち船を這うては引ける春の潮
根掛りと思へば眼張尺近し
のどけしや運河に浮かびゐる鳥も
うららかや牧に木彫の牛地蔵
声ひきて鳴く乳牛や水温む
寄贈図書 工藤 泰子
佐藤 宗生顧問「遙照」六月号
暖かや人にも子にもめぐまれて 朝妻 力
青石に刻める一句花吹雪く(天好園)〃
遣らせかと見ゆる良き日の花吹雪 〃
産土に久闊叙する桜時 杉浦 正夫
国道の分かつ吉備野や麦青む 小澤 巌
梅が香や室の廓の名残窓 酒井多加子
拝受俳誌・諸家近詠 徳重 三恵
外山 安龍主宰「半夜」6月号
丹頂の声の透きくる雪裡川 酒井多加子
令和俳壇
角川書店「俳句」6月号
森田純一郎 佳作
万博の新築駅舎日脚伸ぶ 中尾 謙三
仰ぎ見るニコライ堂の春灯 角野 京子
豆撒や闇の深きへ声を張り 小林伊久子
星野 高士 佳作
紙風船打つたび夢のこぼれ出す 小林伊久子
鳥居真里子 佳作
土筆摘むことになりけりかくれんぼ 小林伊久子
合評鼎談
角川書店「俳句」6月号
山西雅子選評
セーターの袖口のばし立ち話 小林伊久子
何でもない出来事です。セーター一枚で外にいられるような季節。でも立ち話をしているうちに、心なしか寒いような気持ちになり、セーターの袖口を伸ばしている。微妙な感覚を捉えた句。
第31回全国俳句コンクール
佳作
肘掛の程よき硬さ漱石忌 星私 虎亮
第60回関西俳句大会
5月24日当日投句
石井いさお入選
沢音も夏めく大和一の宮 中谷惠美子
西池 冬扇特選
相傘で渡辺橋の迎へ梅雨 河原 まき
奈良県俳句協会 春季大会
子どもの部 奈良県俳句協会大賞
年こしはぼくはぐっすりゆめの中 中谷 莉子
水野 露草入選
待春や手に乗せてみるベビー靴 中尾 光子
春愁や古き手紙の捨てきれず 中尾 光子
淡雪や空も光もま新し 中谷恵美子
村手 圭子入選
待春や手に乗せてみるベビー靴 中尾 光子
杉本 艸舟入選
初電話声のトーンで知る安堵 中尾 光子
春愁や古き手紙の捨てきれず 中尾 光子
鳥語にも訛あるらし山の春 中谷恵美子
上辻 蒼人入選
淡雪や空も光もま新し 中谷恵美子
藤本 良子入選
鳥語にも訛あるらし山の春 中谷恵美子
今日生きて明日へ夢見る木の芽時 土屋 順子
吉田 茂子入選
源流は神の山なり芹の水 中谷恵美子
セクト・ポクリット コンゲツノハイク
堀切克洋氏ホームページ 5月
ドラム缶の鐘撞く灘の阪神忌 杉浦 正夫
火切り道残る二月の三笠山 吉村 征子
陶椅子にぬくみの残る春の夕 今村美智子
寒夜更く譫言呪文の如く吐き 岡田万壽美
大漁旗なびく歳初の漕出式 三澤 福泉
帰り来て余寒の部屋に灯を点す 土屋 順子
どこか春訛楽しき長電話 植田 耕士
アンジュ俳句会 社会福祉法人庄清会
6月 指導 角野 京子
色白といつもほめられ若葉風 江草 孝子
蛇は蛇何と言っても赤まむし 芝池フランク
鳥啼きて井戸の周りの若葉燃ゆ 新庄 昌
縞蛇のずるずるよぎる勝手口 高見 智子
蛇の夢火事の夢見て明け易し 中谷 重美
藤棚の蜜を求めて羽根の音 西岡久仁子
住吉や流れるように藤の花 藤岡 一子
伐られたる幹より出づる柿若葉 角野 京子
ある日の俳人 朝妻 力
俳句四季4月号
来年は傘寿
ある総合誌から33句欄(1年に4回)を仰せつかった。これが中々手強い。2月10日締切り分は高槻市にある今城塚古墳公園(継体天皇陵)を計画したが8日になっても半数程度。物忘れの激しいなか、記憶や想像では作句できなくなった。折良く次女が来宅したので車を運転してもらう。昨年8月から運転は止めたのである。古墳跡に埴輪が並んでいる。200体ほどの埴輪の中に力士が4体。埴輪を始めて作ったのは野見宿祢である。相撲で当麻蹴速を一蹴りで倒した人物。力士埴輪は彼の名残。その子孫が菅原道真……などと思いを馳せているとようやく出来てくる。実際に対象に接しないと出来ないのである。来年は傘寿。元々乏しい創作力が年々衰えている昨今である。
7:00 起床。昨夜は22時に就寝したので睡眠9時間。湯張り。朝食。
8:00 入浴。夜は飲酒、朝は髪の寝癖が激しいので数十年間朝風呂。
9:00 受信メール確認。俳人協会静岡支部新年大会の講演レジュメ「遠くて近い東大寺修二会」を最終確認。担当の吉住さんに送稿。パワーポイントの内容確認。本日の句会で話す予定の「冬至十日はあほでも分かる」資料と二至二分四立資料をまとめてプリント。
12:00 次女の運転で伊丹へ。かきもり句会。会場は伊丹AIホール。欠席投句を含めて38名の句会。句会開始前にホームページ用集合写真撮影。披講の前に、前回の質問である「冬至十日はあほでも分かる」という俗諺がなぜ生まれたかを、11月中旬から12月末までの日没時刻を示して説明。実際は11月30日の日没時刻が最も早いのだが、冬至という語感から多くの人が冬至が最も早いと思い込んでいること等が原因。作句力向上には繋がらない話。
16:30 伊丹駅前の居酒屋「八代」で小酌。光本弥観会員が茨木市議会議員選挙で5回目の当選を果たしたことで盛り上がる。公選法に触れてはいけないということで割り勘。
19:30 茨木着。光本さんと焼肉「ふじた」へ。ここでも割り勘。
21:30 帰宅。すっかり出来上がっている。ざっとメールを確認し爆睡。
本当にあった国讓り
神話、逸話の奥に見えるもの
俳人協会島根支部会報 令和七年四月号
執筆 俳人協会島根支部 三原 白鴉
講師 「雲の峰」主宰 朝妻 力
はじめに
記紀の中で出雲は特別な場所である。同様に出雲の中の隠岐も歴史の重要舞台。国生み神話の中で隠岐は四番目に生まれた島で、本土が生まれる前に生まれた島。結局かなり重要な位置付けの島であったと考えられる。こうしたことから個人的に出雲と隠岐に興味があって、これまで十回は訪れている。今回たまたま講演の機会を得たので、「本当にあった国譲り」という題で私の考えをお話しさせて頂く事とした。
国譲りとは
国譲りの舞台は大和の国である。日本全体を統治すると見られていた大和の国を、私に譲ってくれと、神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれびこのみこと・後の神武天皇)は大国主命に依頼する。大和を治めてきた大国主命はこの申し出を受ける。なにゆえ強大な力を持つ神倭伊波礼琵古命は武力を用いず大国主命に国を譲ってくれと頼み、大国主命はなにゆえ承諾したのか。神話として読むと真実が分からなくなってくるが、日本書紀も古事記も嘘八百を書いているとは思えない。
梅原猛は、当初出雲王国はなかったという本を書いたが、後に大国主命や出雲の国の力を肯定する本(葬られた王朝)を書いている。書かれる前に、荒神谷において大量の銅剣が発見され、また出雲大社境内において巨大な三本の木を束ねた宇豆柱が発見された。それに前後して、一箇所から大量の銅鐸も発見(加茂岩倉遺跡)されている。それらを見ると、神話の世界と思われていた出雲の国は存在したと結論付けて考えるしかないことになる。そういうところから国譲りは実際にあったと考えて間違いない。
国引き神話
大国主に関わる神話と言えば、因幡の白兎の話は誰でも知っているが、大国主命が行ったり来たりしているということから今でいう同じ行政区画にあったということが見えてくる。出雲と隠岐についても、因幡の白兎は隠岐から渡ってくるのだが、ここから隠岐との交流もかなりあったということが分かる。ここで大国主の兄たちは白兎に乱暴を働くが、以後余り神話には登場しない。ここに古代の末子相続の姿を見ることができる。こうしたことから単なる物語とは言えないと考えられる。
国生み神話で伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の二神が海に天沼矛(あめのぬぼこ)を入れて搔き回し、沼矛を引き上げて最初に誕生した島が淤能碁呂島(おのころじま 注・自ずから凝り固まった島)であった。これは淡路島の傍の沼島(ぬしま)が比定されている。その後二神によって沢山の島が生み出されていくが、その道具である天沼矛は青銅器であったと考えられる。
一方、出雲の国生みとも言える国引き神話であるが、こちらは八束水臣津野命が鋤きとった国を三つ編みの綱で引き寄せて杭に繋ぎ止めている。八束水臣津野命は引き終わった時に杖を大地に突き立てて「おえ」と叫んだと言われ、その地が「意宇(いう)」という名になって残っている。こちらの道具は、三つ編みにした綱と杭である。国生みの道具を比較するだけでも、天孫系の文化が進んでいたことが分かる。
国引き神話と縄文海退
国引き神話について、架空の物語と考えるか、その元となった何かがあったと考えるか。私は何もなかったとは思わない。今から三千年ほど前は、縄文海退の開始の時期であり、海面は現在より三メートルほど高かった。その頃から海面が徐々に低くなってきたのである。例えば三千年ほど前、出雲の海岸から少し離れた場所に小さな島があり誰かのお爺さんが釣の帰りに昼寝をしたとする。お爺さんの昼寝島である。
海退が進むにつれ、例えば今から二千年位前になると陸続きになり、次第に草木も生えるようになっていった。そう、曾・曾・曾お爺ちゃんの昼寝島が陸続きになったのである。海退が進むと海だったところが地面となり、次第に人が降りてきて住むようになる。当然ながら当時の人たちは、海進、海退という科学的知識はない。万能の神大国主命が国を引っ張って来て広げてくれたんだと考えたと結論付けることになった。国引き神話というのは、実際に起きたことを大国主命の行為にして記録に残したということであり、非常に魅力ある話である。ちなみに、海退の現象は海岸近くに出来る貝塚が現在の海岸線よりずっと奥まった標高の高いところから出てくることでも証明されている。
出雲の力の原泉 黒曜石
引っ張ってきたとされる国は、出雲の中から二箇所、高志の国(富山県)と、新羅からとされている。実は、新羅ではなく少し東北寄りにあるウラジオストクであるという説がある。ここで隠岐産の黒曜石が多く発掘されているからである。黒曜石は割れ口が非常に鋭利で硬いため、鏃や包丁、ナイフなどに使われたが、ウラジオストクの黒曜石がすべて隠岐産のものであった。盛んに交易していたことの証拠である。この交易を国引きと表現したと考えてもいいように思う。
国引き神話に戻るが、国を引いた綱の材料は何であろうか。神話の成立したと思われる起源二世紀や三世紀は稲作が始まったばかり。藁縄はまだあまり作られていなかった想像される。自然にあるものと考えをめぐらすと藤の蔓が頭に浮かぶ。藤の蔓の皮を剝ぎ取って縄に編むと非常に丈夫な綱となる。しかし、藤蔓の皮を剝ぎ取る時に、あまりにも皮が丈夫過ぎて切ることができない。その時に黒曜石の包丁が有用であると考えられ、実際に試してみたところスパスパと切ることができた。このことから分かるように黒曜石は鉄のない時代にとても有用なものであり、交易に有用な物であったことが分かる。
黒曜石を輸出して、出雲にないものをウラジオストクから輸入する。隠岐の黒曜石は出雲の国力の源泉、原点であったと言えよう。そして、大国主命(個人というより代々の大国主命一族)は黒曜石の力をもって出雲から高志、奈良大和に向けて勢力を拡大していったのではないか。それは石器時代を経て、銅剣など青銅器の時代に入る前のことである。
神武東征
神武東征について考えてみる、神武天皇は後の名前で、当時は神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこ)である。神武が九州高千穂からなぜ大和まで来たのか。当時大国主命が持っていた武器は青銅の武器である。これに対して伊邪那岐たちは鉄器であった。鉄器の方は鍛え方によって全く強さが違ってくるが、当初の鉄器はまだほとんど鍛えられていなかった。ただ形を整えるために叩いているだけであった。そのうちに叩けば叩く程不純物が外に出て、強くなり錆も出なくなることが分かる。つまり鍛造の技術も発達した頃で、これなら銅剣に勝てると東進をしてきた。これが神武東征である。
孔舎衛坂(くさかえざか)での敗戦
日本書紀に「難波崎に至るときに、奔き潮ありて……、因りて「浪速国」とす。亦浪花と言ふ。……河内国の草香邑の青雲の白肩の津に至る」とある。今の東大阪市日下(くさか)の辺りである。前述したように、この当時の海水面は今より二メートルほど高く、大阪は河内湾という海湾であった。簡単に言えば上町台地から生駒山までの間は海であった。それが海退現象と、河内湾に流れ込む淀川、大和川の二つの大河によって運ばれた土砂とによって、現在の大阪が形成されたものである。
さて、日下に上陸した神武は、そこから生駒に向かって攻めるが、孔舎衛坂で長髄彦(ながすねひこ)に惨敗してしまう。攻める方は坂道を上るのに対して、坂の上には守る長髄彦がいて、剣を使わなくても石を投げ落とせばよい。この結果は誰が考えても分かる。このとき、兄の五瀬命(いつせのみこと)が肘を射られて負傷をしてしまい、傷を洗うと海が血に染まったので血沼海(ちぬのうみ)と呼ばれ、今でも大阪湾を茅渟海(ちぬのうみ)というのはそこから来ている。肘を射られた五瀬命は「我々は日の神の御子である。太陽神の子孫である我々が日の昇る方向である東に向かって攻めるから負けたのだ。」と言ったとある。わざわざ記録として残しているのである。
長髄彦は那賀須泥毘古(ながすねびこ)、登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)、登美毘古(とみびこ)などとも書かれる。現在でも登弥(とみ)という地があり、そこには登弥神社がある。粥占神事が行われる神社である。そこを少し行くと富雄丸山古墳がある。この古墳から令和四年十一月に二メートル三十七センチの長大な蛇行剣が発見された。これは鉄剣であるが実用の剣とは言いがたい。草薙剣を真似たのではないかともいわれているがこれからいろいろ解明が進むのではないかと思う。
なお、和歌山市竈山に竈山神社があり、ここに長髄彦から負った傷がもとで亡くなった五瀬命が祀られている。
熊野大迂回
五瀬命の言葉を受けて、神武は熊野に迂回して、つまり太陽を背又は横にして大和を攻めることにするが、和歌山から熊野に向かうということは東に向かうことになる。向かっていると大暴風雨となって船が進まなくなり、神武の次兄の稲飯命(いないのみこと)が海に入って荒れ狂う海の神を鎮めることになる。更にこの暴風雨で三兄の三毛入野命(みけいりののみこと)も失うことになる。そしてやっとの思いで着いた新宮または熊野から熊野山中に入る。
しかし、途中で大熊が現れ全員気を失ってしまう。そこに高倉下(たかくらじ)が一振りの大太刀を持って現れ、皆の目が覚めるのであるが、これが何を意味するか。かつて質の劣った鉄剣であったが、鍛造技術が進化して更に鋭い刃物になったという暗示であろう。
目が覚めて一行は険しい山道を大和に向かうが、そこに八咫烏が現れて道案内をしてくれる。宇陀は兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)の兄弟が治めていたが、弟宇迦斯を味方に引き入れ、兄宇迦斯を敗る。場所は現在の宇陀市血原である。神武は兄宇迦斯を破り、国見山の八十梟帥(やそたける)、忍坂の土雲(つちぐも)と連戦連勝で、遂に登弥の長髄彦を破った。片方は銅剣であり、神武の方は鍛えた鉄剣を持っている。結果は当然である。
国讓りの談判 東進へのトラウマ
問題は大国主命。大国主も長髄彦など大和の豪族同様銅剣しか持っていない。それなのに神武は何故攻めることができないのか。実は、神武は「東に向かうと負ける」というトラウマになっていた。大国主命のいた三輪明神大神神社は地形的には東に向かわなければ攻めることが出来ない。神武は、長髄彦と戦って長兄を失い、熊野に向かって次兄、三兄を失った。つまり東に向かって攻めると負けるというトラウマに陥っていた。そこで、戦うのを止めて国譲りを迫ったのではないか。神武は、連戦連勝で鉄の武器も持っている。普通に戦えば神武が負けることはない。しかし「東進に対するトラウマ」は強かった。
そこで。大国主の故郷の出雲の地に柱を高く、太く、板も厚く、広い天日隅宮(あめのひすみのみや)を作り、天穂日命(あめのほひのみこと)をもって祀らせることを条件に大和の国を譲ってくれと申し出た。これは大変な申し出である。ちょっとのことではとてもできない。そこまでして神武は大和を取りたかった。
一方の大国主命は冷静であった。自分の武器は銅剣で、相手は鉄の武器を持っている。戦っても勝てない、ということはよく分かっていた。そこに、出雲に大きなお宮を用意するから引っ込んでくれという申し出は、大国主からすれば渡りに船の話であった。大国主は即決で承諾する。そして大和を退却して出雲に帰る。出雲に到着すると、もう剣は要らない、あっても役に立たないということから、×印をつけて埋めた。それが荒神谷遺跡であろう。
出雲に帰るときに、大国主は自分の気持は大神神社に祀りましょうということで桜井市の大神神社には大国主命が祀られている。大国主には三人の子どもがいてそれぞれ葛木御歳神社、川俣神社、飛鳥坐神社に祀られているのだが、こちらは人質の意味合いが強いと考える。
出雲大社の完成と神無月
やがて出雲大社が完成する。上古は三十二丈(九十六メートル)であるが、多分これは誇張であろう。平安時代には十六丈(四十八メートル)の高さがあった。これを裏付けるように拝殿と本殿の間から三本の直径一メートルの丸太をまとめた柱の根元が発掘され、この高さの建物が存在したということが証明された。江戸時代に本居宣長が出雲大社の設計図である金輪造営図を見たということを書いているが誰も信用しなかった。それがこの宇豆柱が発見されたことで高殿が存在したことが明らかになった。
出雲大社が完成すると当然のこととして完成祝賀会が催される。そこで大和の神々(豪族)が挙って出雲に集まる。これが全国の神が出雲の集まる神無月(出雲は神在月)の元となった。神無月・神在月などという話は、全く架空の話として作り出すことはできない。国譲りの結果、大国主命の住居である巨大な出雲大社が出来、大和から挙って出雲に行って盛大な完成祝いをやったからこそ出来た話であると考えている。
神武の存在
皇紀という紀年法がある。初代神武天皇から数えて今年は二六八三年とされているが、これはかなり怪しい。武器や鉄の鍛錬具合から見て二千六百年前は実用的な鉄の武器は存在しない。しかし、神武は鉄の武器を持っていた。ここからも二千六百年という年紀は怪しいと言わざるを得ない。古事記、日本書紀の天皇系譜には、神武の次の八代の天皇は「欠史八代と」言われ、実在しないとされている。間に存在しない八代を入れ込んで神武天皇誕生を古くし、始まりを早めたのである。そういう操作はあるが、神武天皇そのものは存在したと考えている。
時系列でみると、鉄は紀元前には日本に来ていた。ただ鍛造技術が発達していないのでせいぜい形を整えて、蛇行剣を作る程度であったと考えられる。卑弥呼が紀元二百五十年頃、魏志倭人伝が二百八十年頃、富雄丸山古墳が三百五十年頃とされている。こうしてみてくるとやはり、西暦二百年から四百年頃の間に神武天皇が即位したと考えるのが妥当であろうと考えられる。
神話、伝説、習俗と俳句
神話や伝説や逸話の中で、竹取物語のような純然たる物語として作られたものは少ないのではないか。多くのものは元となる何かがあって出来ていると考えるのが自然である。そう考えると神話や伝説への興味は尽きない。
神社にお参りした時は二礼二拍手一礼だが、出雲大社の場合は二礼四拍手一礼と独特である。神話やその地の歴史、古い時代に様々思いを馳せ、また独特の文化習俗を楽しみながら歩くのも俳句の良さかと考えている。
俳句と健康寿命について
健康寿命とは、単なる寿命とは別の概念で、健康で元気に生活できる期間という意味であるが、この健康寿命をできるだけ実際の寿命に近づけることが大切だと言われている。横浜にある汐田総合病院宮澤由美院長は、死ぬまで健康でいるためには心と体を活性化する必要があり、その具体的内容として、運動、コミュニケーション、食事、睡眠と共に知的活動を挙げておられる。色々なところに出かけ、そこで興味ある景色、出来事を発見し、そして俳句を考え、作る、書く、あるいはまた他人の句を読んで考える、句会で話す、聞く、これらはすべて健康寿命を延ばすために有効なことであると言う。そんなことで、ぜひいつまでも俳句を続けて欲しい。
令和六年九月二十九日