連載 <俳句入門>   朝妻 力

俳句入門  7

 第6回までの俳句入門は
  何でもかんでも575にしてみる
  句帳に目・耳・鼻・舌・皮膚と書いておく
  俳句が出来たら声を出して読んでみる
  自信のある作品でも、一晩寝かせる
  歳時記などの例句は音読する
ということについて、また一晩寝かせたあとのチェックポイントについて書いてきました。

 今月からは一休みという雰囲気で、俳句の歴史について考えてゆきます。軽い物語に対するような気持でお読みいただければ……と思います。

俳句小史 俳句の発生と発展

神々のうた

 和歌は漢詩に対する日本独特の文学として生まれました。始めての勅撰和歌集である古今和歌集の仮名序(かなじょ・仮名で書いた序文)に

花に鳴く鶯、水に住むかはづ(蛙)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。

とあります。

鶯や蛙の声を聞いていると、生きているもので、歌を詠まないものなど無いように思われる。

というほどの意味です。序文ではさらに、歌は鬼や神様の心を動かし、天地を動かし(雨乞いとか、豊作祈願など……)、男女の中を和らげ、荒々しい武士の心をも慰めてくれる、と書かれています。
 余談ですが、古今集の序文は、仮名まじりの日本語で書かれ、これは仮名序と呼ばれ、集の冒頭に配置されています。一方、巻末には漢文で書かれた序文があり、これは真名序(まなじょ)と呼ばれています。当時、日本の正式文書は漢文でありました。そこで漢字のことを真名といいます。

 このように書かれると、和歌はその発生当時より、神々や鬼神や天地を意識していたということが分かります。そんな歌と呼ばれる詩ができたのはいつの頃でありましょうか。実際には文字の輸入される何百年、何千年も前から存在していたと思われます。荒ぶる神をおとなしくさせるための呪文とか、神への感謝の言葉とか、うれしいときの叫びとか、願いごとを唱えるなど、一定のリズムを持った歌が存在していたに違いありません。事実、5・7・5・7・7という、現在の短歌の形になったのは、神代の時代でした。

 古事記に、須佐之男命(すさのおのみこと)が、足名椎(あしなづち)という国つ神(土着の神)に頼まれ、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治するお話がでてきます。大蛇を酒に酔わせ、みごとに退治した須佐之男命は、約束通りに足名椎の娘、櫛名田比売(くしなだひめ)と結婚できたのでした。そのときの喜びの歌が、

八雲たつ 出雲八重垣
妻ごみに 八重垣作る
その八重垣を         古事記歌謡番号1

です。これを声に出して読んでみますと、みごとに5・7・5・7・7となっていることが分かります。この歌こそ、和歌の嚆矢(こうし)といわれる一首であり、古事記歌謡の第1番に据えられているのです。

 古事記からもう一つの歌謡を紹介しましょう。倭建命(やまとたけるのみこと)は、父である景行天皇の命令を受けて日本各地を平定したことはご存知のことと思います。その倭建命が東国十二国の遠征からの帰路、今で言う甲府市で

新治(にいばり)筑波を過ぎて 幾夜か寝つる  歌謡番号26

 新治も筑波も茨城県の地名。「新治の筑波を過ぎて、幾夜寝たのであろうか。」とつぶやきます。
 そばで聞いていた、御火炬(みひたき)の翁がすかさず
かがなべて夜には九夜(ここのよ) 日には十日を   歌謡番号27
と返しました。

 余りのみごとさに、この翁を東国造(あづまのくにのみやつこ)にしたということです。このように、現代に伝わる最古の系統だった歴史書(あるいは系統だった物語)に、いくつかの歌が登場するということにも、先人の歌に対する思いの深さが感じ取れます。
 なお、和歌は漢詩に対する日本の歌。倭歌(やまとうた)ともいいます。長歌、旋頭歌なども含んでいましたが、やがて短歌だけをさすようになります。
 古事記は天武天皇の命で、稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた古い物語を、太安万侶(おおのやすまろ)が筆記した物語。和銅5年(712年)に成りました。阿礼は大和郡山市の稗田環濠、賣太神社に祀られています。また太安万侶は古事記偽書説などのあるなか、奈良市此瀬町の茶畑でその墓が発見されました。

万葉歌人たち
 古事記歌謡は、7・5調を基本にしていますが、5・7・5・7・7の定型をはっきりと意識した歌はむしろ少ないのが特徴です。これが万葉集となると、5・7・5・7・7は完全に定着してきます。とは言っても、万葉集には三つの形式の和歌があり、その内の短歌が5・7・5・7・7であるのです。三つの形式といいますのは

長歌   五七調を基本とした比較的長い歌
短歌   5・7・5・7・7の歌
旋頭歌  5・7・7・5・7・7の歌

をいいます。まずは実例を見て見ましょう。まず、軽皇子(かるのみこ)が安騎野(あきの)に狩に出かけたとき、随行した柿本人麻呂の作った歌。
 やすみしし わが大王 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 京(みやこ)を置きて 隠国の 泊瀬の山は……中略……み雪降る 安騎の大野に 旗薄 しのをおしなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて
 短歌
東の野にかぎろひの立つ見えて
        かへり見すれば 月かたぶきぬ

 冒頭の、「やすみしし」から、「いにしへ思ひて」までが、長歌と呼ばれる部分です。5・7調であることがわかります。短歌は4首あるうちの、最も知られている1首だけを紹介しました。

 ところで、この短歌は、江戸中期の国文学者賀茂真淵の名訓で知られています。原文は

東野炎立所見而反見為者月西渡

という、味もそっけもないものです。真淵以前は
あづま野の けぶりの立てるところ見て
         かへり見すれば 月傾きぬ
と読んでいたそうですが、色々の意見がでて、どうも読みが定まらない。しかし、「ひむがしの 野にかぎろひの……」という真淵の読みが余りにも見事なので、その後、正しい読みはどうなのかという意見さえ出なくなったということです。

 いずれにしましても、5・7調というのは、非常に唱えやすい。実際に声を出して読んでみますと、これらの歌は、書いて記録したのではなく、その場で音読して披露されたものという感じをもたれることと思います。人麻呂や山部赤人(やまべのあかひと)などの宮廷詩人は、半ば即興で神を讃え、皇族方を寿ぎ、あるいは天地を誉め、あるいは人の死を悼む歌を作り、その場で披露していたのでありましょう。心に残る多くの歌を残しております。

淡海の海 夕浪千鳥汝が鳴けば
   心もしのに いにしへ 思ほゆ  人麻呂
若の浦に 潮満ちくれば潟を無み
    葦辺をさして 鶴鳴きわたる  赤 人

 若の浦は、現在の和歌の浦。歌人の土岐善麿は、この一首から笛と鼓のみごとに調和した謡曲、「鶴」を作り上げました。

 さて、旋頭歌(せどうか)についても例をみてみましょう。貧窮問答歌などで知られる山上憶良(やまのうえのおくら)に次のような歌があります。

秋の野に 咲きたる花を 指折り
        かき数ふれば 七種の花
萩の花 尾花 葛花 なでしこの花
        女郎花 また藤袴 朝がほの花

 始めの一首は5・7・5・7・7で短歌。次の一首は5・7・7・5・7・7で、これが旋頭歌と呼ばれるものです。季語でいう「秋の七草」とはここからきているのか、と気づかれた方も多いことでしょう。最後の朝がほの花は、朝顔ではなく、桔梗の花のことであると言われております。

 万葉集には、天皇から、防人などの一般の人たちまでの、数多くの歌が収められています。万葉秀歌などの題で、いい歌を抜きだして解説した本もでています。皆さまもぜひご一読下さいますよう……。
 なお三つの形式、長歌・短歌・旋頭歌のほかに、仏足石歌体という歌があります。5・7・5・7・7・7で、奈良薬師寺の仏足石歌碑とよばれる歌碑群の歌体がこれと同じであることから、そう呼ばれています。