連載 <俳句入門>   朝妻 力

何でもかんでも575にしてみよう

 第1回では俳句は有季定型であるということのさわりを説明しました。有季、季語についてはまだまだ詳しい説明が必要です。また定型についても更に深い検討が必要になります。しかし俳句をはじめて間のない方は
 俳句は有季定型である
とだけ覚えてください。そして見たもの、聞いたことを、季語を用い、575で表現するという練習に没頭していただきたいと思います。その第一が、何でもかんでも575で表現することの練習。

宿題 以下の文章はある日の朝のあれこれです。この様子からできるだけ多くの俳句を作って下さい。季語を入れ、575の定型で作ってみて下さい。
―回答例は次号―
景1
 6時に目覚める。8時間、ぐっすりと眠れた。布団を出ると少し寒い。今日は立冬だ。ガウンを羽織り、新聞を取りに出る。白い浮雲が流れているが、空の青が透けるような日本晴れ。立冬の空気が匂ってくるようだし、きいきいといつもの鳥が鳴いている。
景2
 味噌汁の葱を刻む。昨日採ったばかりの葱特有の香りがいい。やがてピピピと電子音。夕べ寝る前にセットしたご飯の炊けた合図。味噌汁作りを中断し、炊けたご飯をほぐす。毎朝のことながら炊きたてのご飯の香りが心地よい。こうして蒸らすのがご飯をおいしく頂く第一歩と、繰り返し母から教わった。
景3
 鮭の切り身を焼き、夕べ漬けた蕪を切る。葱も蕪も夫が熱中している菜園の産物である。自家消費、地産地消などという語が浮かんでくる。
景4
 朝食が済み、朝刊を読み終わった夫が畑支度を始める。洗濯したての作業服に柔軟剤の良い香りが残る。その上にカーキ色のジャンパーを羽織り、まるで会社に出かけるごとく出てゆく。現役時代と違うのは、出発が少し遅くなったことと、背広がジャンパーに変わったことか……。

 俳句を始めたばかりの人は共通して、「何を俳句に詠んでいいのか分からない」という悩みを持ちます。初心者ならではの苦労ですね。
 また、かなりのベテランであっても、体調や心配事など、特段の事情がないのに、「この頃俳句がちっともできない」という壁に突き当たることがあります。
 それらを打破する一つが、何でも575にしてみる……という訓練です。右にあげた情景は、どちらのお宅にでもありそうな、朝の一景です。この短文を読みながら、俳句を作ってみて下さい。
 時間は無制限です。回答例は次号にて紹介します。

俳句は自然と生活の詩

 私の師、皆川盤水は「自然と生活の中から新鮮な美を見いだす」ということを作句の指針として指導してこられました。「雲の峰」では、この指針を引き継ぎ、次のように作句の指針としております。

作句指針

1季語と定型を生かし、正しい日本語で表現する
  有季定型を基本とする
  日本語を大切にし、正しい言葉遣いで作句する
2自然と生活の中から新鮮な詩情を発見する
  意識して感性を磨き、身辺から新鮮な詩情を探す
  詠まれた人が不快感を持つ俳句は作らない
 以上を指針とし、「学習する結社」を標榜して活動
していることは入会時にご案内した通りです。更に、
 俳句は17文字の自分詩、
   そして1日1行の自分史
をスローガンとしてあげています。
 これは「俳句は、とっても高尚で難しい」「勉強が一番苦手な私に俳句なんて……」という俳句入門前の概念を捨て、俳句は17文字という簡単なポエム。簡単だから、やろうと思えば誰にでも出来る。それが積み重なると、まさに自分史となってくれる……という、朝妻の思いを文字にしたものです。
 ちなみに俳句を17文字の文学とも言いますが、これは俳句を旧仮名(歴史的仮名遣)で表現すると17文字になるからです。17音という言い方もあります。

 ここで、盤水師が「自然と生活の中から……」とした意義について検討して見ます。
 自然を詠むということは有季定型ということからもすんなりと理解できます。季語は、四季の自然そのものであるからです。更に、わざわざ「生活の中から」と言っているということは、俳句には生活が色濃く入っているということに他なりません。ここに言う「生活」は、生きて活動すること、世の中で暮らしてゆくことをさしますが、同時に、生きて行く過程で遭遇する様々の事象やわき起こる幾多の感慨を内包する語と考えて間違いないでしょう。言い換えますと、人生。「自然と人生の中から新鮮な詩情を発見する」と言い換えても同じ意味になろうかと思います。

 ためしに歳時記で秋の季語「露」の例句をみて見ましょう。初心の皆さんのために簡単に句意を説明しつつ俳句と自然について考えます。

芋の露連山影を正うす        飯田 蛇笏
 眼前には里芋の葉に露がきらめいている。目をうつせば山々が影(山容・姿)を正しく連ねている。実に気持の良い朝だ……。秋の朝の透徹した清冽な山河が思われます。作者が山梨県の山村に暮らしていると知れば、更に美しい光景が目に浮かびます。
 〈芋の露〉と季語を提示し、読者に引き締まった寒気を想像させました。そして〈連山影を正うす〉と住まいから見渡す甲斐の山々の景を把握しました。近景と遠景を対比し、全景を表現したのです。
 清浄とか、美しいとか、寒気とか、空の色などは言っておりませんが、読者には全景の全てが伝わります。これが俳句の凄さ。俳句の凄さを見せつける一句と言っても過言ではありません。純粋な自然詠と言える一句です。

蔓踏んで一山の露動きけり      原  石鼎
 葛の蔓でありましょう。その一本を踏んだら、こんもりと山のように見える全ての露が動いた……。石鼎が吉野に住んだ時の句。
 蛇笏の句は見える自然を純粋に描写した感がありますが、掲句は作者の足が登場します。自然をそのままに詠むことももちろん大切ですが、〈芋の露……〉のような大自然の息吹を感じさせる句はめったに出来るものではありません。そんなことで、作者が自然と触れあった一景を詠むことが多いようです。人が登場する分、人の息吹、つまり「生活」を感じさせてくれるようになります。

露とくとく試みに浮世すすがばや   松尾 芭蕉
 吉野山に隠棲した西行庵の跡の清水を訪ねた時の句。昔と変わらず清水が雫を落とし続けている。ためしに、この清水で浮世のけがれをすすいでみたいものであるよ。
 芭蕉が〈露とくとく〉と詠んだ〈とくとく〉は、
とくとくと落つる岩間の苔清水
      汲みほすほどもなき住居かな  西行
から取られています。この清水でもって身を清めたいという芭蕉の思いが一句をなしました。
 西行が住んでいたころを思い、西行が詠んだ和歌を思いながら眼前の清水をみている芭蕉。〈試みに浮世すすがばや〉という思いに至った過程が分かるようです。自然と人生が渾然一体となった句と言えましょうか。

 余談ですが、後年、芭蕉は大津市国分山の幻住庵に四ケ月ほど住みました。ここにも清水が湧き出ているのですが、芭蕉は『幻住庵記』に「とくとくの雫」と書き残しています。
 更に後年、幻住庵を訪れた高浜虚子は
淋しさの故に泉に名をもつけ
と詠んで芭蕉に挨拶を申し上げました。この句は句集などには残っておりませんが、幻住庵に虚子自筆の条幅が残っております。

露の世は露の世ながらさりながら   小林 一茶
 信濃に戻った一茶が晩婚ながら伴侶を得、ようやく授かった一人娘を亡くしたおりの一句。世の中は儚い露のような世と知ってはいるが、しかし、それにしても余りにも儚いことであるよ。
 一歳余りの娘を失った一茶の慟哭の一句。自然の景としての季語ではなく、「露の世」という人間世界の比喩の対象としての季語になっています。まさに生活の中から、ほとばしりでた一句。

白露や死んでゆく日も帯締めて    三橋 鷹女
 白露の美しさよ。死ぬ日も今日のように帯をしめていたいものだ……。
 白露は露の美称ですが、汚れを寄せ付けない清浄さ、塵ひとつない、引き締まった周囲の寒気を思わせてくれます。作者自身の思い描く望ましい生き方、望ましい死に方を想起させたのは季語の〈白露〉。自然と生活の関りを思わせてくれます。

 今回は、先人の作品を紹介しながら、自然と生活について考えてみました。自然・四季・季語・生活・人生などを考えてみると、多くの人にとって俳句を身近に感じることのできる最も大きな要因かと思います。

 次回は、いよいよ
 どんなふうに俳句を作るか
 沢山作るにはどうしたら良いか
という話をいたします。
 くれぐれも宿題をお忘れ無く。